三日目の夜だった。
新しい部屋に越してきてから、まだカーテンの匂いも取れていない頃。駅から徒歩二分という立地が気に入って契約したマンションは、エントランスが無駄に広く、床の大理石だけが妙に光っていた。バブルの残骸のような建物だった。
その日は取引先と飲んでいた。相手は既婚者だったが、そういうことは仕事の場では関係ない。深夜二時近くまで付き合い、終電で戻った。
駅前のロータリーを抜け、コンビニに寄り、ビールとつまみを買う。酔いは残っていたが足取りは軽かった。
エントランスに入ると、大理石のベンチに女が座っていた。三十代半ばくらい。濃い化粧、どこか季節外れのワンピース。両脇に幼い子供が二人、寄り添うように眠っている。
夜中の二時だ。子供連れでいる場所ではない。
一瞬、視線が合った気がした。だが私は目を逸らし、そのままエレベーターに乗った。
部屋に戻り、テレビをつけ、買ってきたビールを開けた。
「ピンポーン」
チャイムの音がやけに澄んで響いた。
時計を見る。二時を回っている。
インターホンに出ると無言だった。
切ろうとした瞬間、かすれた声がした。
「……えして……」
聞き取れず、問い返す。
「主人を、返して」
言葉の意味がわからなかった。私は独身だ。
ドアが強く叩かれた。
覗き穴越しに見ると、さきほどの女が立っている。子供は見えない。
私は迷ったが、開けてしまった。
女は靴のまま上がり込み、部屋中の扉を開け始めた。クローゼット、押し入れ、浴室。
「間違いです」と言い続けたが、女は泣きながら「主人を返して」と繰り返す。
やがて女は立ち止まり、私を見た。
「あなたは若いし、きれい。男なんて、いくらでも寄ってくるでしょう」
その言い方に、妙な既視感があった。
子供たちが、いつのまにかベランダに立っていた。
私は叫んだかもしれない。
だが、手すりの向こうへと小さな身体が消える瞬間、音はなかった。
確かに落ちたはずなのに、衝撃音も悲鳴もない。
女が最後にこちらを振り返った。
「これで、あなたも同じ」
そう言った気がした。
次の瞬間、ベランダには誰もいなかった。
私は下を覗き込んだ。
アスファルトは濡れているだけで、何もない。
翌朝、管理人に昨夜のことを話した。
管理人は妙に長く黙ったあと、「夜中は静かに」とだけ言った。
それから数日後、管理会社から電話が入った。
「深夜の騒音について苦情が来ています」
私は驚いた。あの夜以来、むしろ物音を立てないようにしている。
苦情は七〇三号室からだという。
私は八階だ。
一階違いとはいえ、上の階の音がそこまで響くだろうか。
その夜から、視線を感じるようになった。
浴室で湯に浸かると、背後に誰かが立っている気配がある。振り返ると誰もいない。
寝室で目を閉じると、瞼の裏に黒い瞳が浮かぶ。
チャイムは鳴らない。
だが、鳴った気がする。
ある日、七〇三号室を訪ねた。
菓子折りを持ち、チャイムを押す。
反応はない。ポストには郵便物が溜まっている。
管理人と共に開錠した。
部屋の中は暗く、空気が淀んでいた。
中央の梁から、ロープが垂れている。
その下に、女性がいた。
死後かなり経っていると聞いた。
名前は中嶋。
既婚者で、夫はすでに家を出ているという。
子供はいない。
それだけだった。
私は、あの夜の女の顔を思い出した。
あれは誰だったのか。
七〇三号室の住人だったのか。
それとも、別の誰かだったのか。
そもそも、子供は本当にいたのか。
あの夜、私は酔っていた。
取引先の男は、帰り際に「また飲もう」と言った。左手の薬指には指輪があった。
あの女の言葉が、時折頭をよぎる。
「あなたも同じ」
何が同じなのか、考えないようにしている。
いまも夜になると、エントランスの大理石のベンチが気になる。
誰も座っていないはずなのに、そこに視線がある気がする。
チャイムは鳴らない。
だが、ときどき耳の奥で音がする。
「ピンポーン」
そして、かすれた声が続く。
「……主人を、返して……」
私はいまも、この部屋に住んでいる。
引っ越す理由が、思いつかないからだ。
だが、ときどき考える。
あの夜、ドアを開けたのは本当に私だったのか。
あるいは――
誰かが、最初からここにいたのではないか。
(了)