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七〇三号室の音 rw+4,255-0212

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三日目の夜だった。

新しい部屋に越してきてから、まだカーテンの匂いも取れていない頃。駅から徒歩二分という立地が気に入って契約したマンションは、エントランスが無駄に広く、床の大理石だけが妙に光っていた。バブルの残骸のような建物だった。

その日は取引先と飲んでいた。相手は既婚者だったが、そういうことは仕事の場では関係ない。深夜二時近くまで付き合い、終電で戻った。

駅前のロータリーを抜け、コンビニに寄り、ビールとつまみを買う。酔いは残っていたが足取りは軽かった。

エントランスに入ると、大理石のベンチに女が座っていた。三十代半ばくらい。濃い化粧、どこか季節外れのワンピース。両脇に幼い子供が二人、寄り添うように眠っている。

夜中の二時だ。子供連れでいる場所ではない。

一瞬、視線が合った気がした。だが私は目を逸らし、そのままエレベーターに乗った。

部屋に戻り、テレビをつけ、買ってきたビールを開けた。

「ピンポーン」

チャイムの音がやけに澄んで響いた。

時計を見る。二時を回っている。

インターホンに出ると無言だった。

切ろうとした瞬間、かすれた声がした。

「……えして……」

聞き取れず、問い返す。

「主人を、返して」

言葉の意味がわからなかった。私は独身だ。

ドアが強く叩かれた。

覗き穴越しに見ると、さきほどの女が立っている。子供は見えない。

私は迷ったが、開けてしまった。

女は靴のまま上がり込み、部屋中の扉を開け始めた。クローゼット、押し入れ、浴室。

「間違いです」と言い続けたが、女は泣きながら「主人を返して」と繰り返す。

やがて女は立ち止まり、私を見た。

「あなたは若いし、きれい。男なんて、いくらでも寄ってくるでしょう」

その言い方に、妙な既視感があった。

子供たちが、いつのまにかベランダに立っていた。

私は叫んだかもしれない。

だが、手すりの向こうへと小さな身体が消える瞬間、音はなかった。

確かに落ちたはずなのに、衝撃音も悲鳴もない。

女が最後にこちらを振り返った。

「これで、あなたも同じ」

そう言った気がした。

次の瞬間、ベランダには誰もいなかった。

私は下を覗き込んだ。

アスファルトは濡れているだけで、何もない。

翌朝、管理人に昨夜のことを話した。

管理人は妙に長く黙ったあと、「夜中は静かに」とだけ言った。

それから数日後、管理会社から電話が入った。

「深夜の騒音について苦情が来ています」

私は驚いた。あの夜以来、むしろ物音を立てないようにしている。

苦情は七〇三号室からだという。

私は八階だ。

一階違いとはいえ、上の階の音がそこまで響くだろうか。

その夜から、視線を感じるようになった。

浴室で湯に浸かると、背後に誰かが立っている気配がある。振り返ると誰もいない。

寝室で目を閉じると、瞼の裏に黒い瞳が浮かぶ。

チャイムは鳴らない。

だが、鳴った気がする。

ある日、七〇三号室を訪ねた。

菓子折りを持ち、チャイムを押す。

反応はない。ポストには郵便物が溜まっている。

管理人と共に開錠した。

部屋の中は暗く、空気が淀んでいた。

中央の梁から、ロープが垂れている。

その下に、女性がいた。

死後かなり経っていると聞いた。

名前は中嶋。

既婚者で、夫はすでに家を出ているという。

子供はいない。

それだけだった。

私は、あの夜の女の顔を思い出した。

あれは誰だったのか。

七〇三号室の住人だったのか。

それとも、別の誰かだったのか。

そもそも、子供は本当にいたのか。

あの夜、私は酔っていた。

取引先の男は、帰り際に「また飲もう」と言った。左手の薬指には指輪があった。

あの女の言葉が、時折頭をよぎる。

「あなたも同じ」

何が同じなのか、考えないようにしている。

いまも夜になると、エントランスの大理石のベンチが気になる。

誰も座っていないはずなのに、そこに視線がある気がする。

チャイムは鳴らない。

だが、ときどき耳の奥で音がする。

「ピンポーン」

そして、かすれた声が続く。

「……主人を、返して……」

私はいまも、この部屋に住んでいる。

引っ越す理由が、思いつかないからだ。

だが、ときどき考える。

あの夜、ドアを開けたのは本当に私だったのか。

あるいは――

誰かが、最初からここにいたのではないか。

(了)

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