高校三年の頃、古典を担当していた年配の先生がいた。
白髪をきっちり撫でつけ、動作はゆったりしているのに、妙にこちらの気を引く人だった。普段、授業なんてほとんど聞き流していた俺だが、その先生の言葉だけは耳に入ってきた。古典が嫌いだったはずなのに、気がつけば前のめりになって聞いていた。自分でも理由が分からない。聞きたくないはずなのに、聞かずにはいられない……そんな感覚だった。
ある日の授業中、先生が急に声を途切れさせた。顔色がさっと白くなり、机に突っ伏したのだ。ざわめきが広がり、女子が「先生、具合悪そう!」と叫んだのを覚えている。普通なら誰かを呼びに行くところだろう。だが、なぜか俺は立ち上がり、教卓まで駆け寄っていた。気づいたら先生を背負っていた。四階から一階の保健室までの長い階段を、老人をおぶって駆け下りるのは想像以上に重かったはずだ。けれど、その時の俺は不思議と苦しさを感じていなかった。背中に伝わる重みよりも、「この人を運ばねばならない」という焦燥がすべてを支配していた。
保健室に着いた途端、先生は意識を失った。すぐに救急車が来て、事なきを得たと後で聞かされた。心臓の発作だったそうだ。あの時は、少しだけ英雄扱いされた。クラス中が俺を褒めそやしたが、内心は妙な違和感が残っていた。自分があんな行動をとるなんて、性分に合わない。普段の俺なら、真っ先に逃げるような立場だろう。だが、あの時は違った。あれは衝動というより、義務のようなものだった。
数週間後、先生が卒業前の授業に戻ってきた。痩せていたが、穏やかな笑みは健在で、最後にこう言ったのだ。「こないだはありがとう。君とは初めて会った気がしないよ」 その言葉を聞いた瞬間、背中に冷たいものが走った。俺もまた、彼に対して説明のつかない懐かしさを感じていたからだ。ただ、俺は笑って誤魔化した。だが内心では、なぜだ、と考えずにはいられなかった。
家に戻り、この出来事を両親に話すと、母は妙に黙り込んだ。そしてぽつりと告げた。「それは因縁なのかもしれないね。うちの家は代々、藩主に仕える家系だったんだから」 正直、耳を疑った。だが、父も真顔で頷いた。詳しく聞くと、我が家は三百年もの間、とある藩主の第一の側近を務めてきたのだという。俺はその直系の長男。世が世ならば、当然のように藩主に仕えていた身分だそうだ。
そして驚くべきことに、あの古典の先生こそが、その藩主家の直系の末裔だったのだ。つまり、もし時代が違えば、俺は彼の家臣として生涯を捧げていたことになる。心臓発作のその瞬間、俺が駆け出し、背負い上げたのは、偶然でも親切心でもなく、もっと古い因縁の命令だったのかもしれない。
……そう考えると、あの日の光景が奇妙に思い出される。背中にあった重さは、病人のそれではなかった。背骨にまで響くような圧倒的な「位」の重み。あの時、俺は藩主を背負っていたのだ。三百年の時を超えて、家臣が主を支えるという役目を果たしていた。あれは義務でもなく、意志ですらなかった。ただ、背筋の奥深くに刻み込まれた血の記憶がそうさせたのだろう。
その後、先生は再び体調を崩し、ほどなくして亡くなったと聞いた。葬儀には出席できなかったが、不思議と涙が出た。生前、直接の親しみを交わしたわけでもない。だが、どうしても「主を失った」という感覚が拭えなかったのだ。
夜、布団に入ると、背中にまだあの重みが蘇ることがある。押し潰されるような苦しさではない。ただ、立ち続けることを強いられるような圧だ。あの感覚が消える日は来るのだろうか。あるいは、またどこかで、主を背負う瞬間が訪れるのかもしれない。俺の血に刻まれた「役目」は、まだ終わっていないように思える。
[出典:358 :本当にあった怖い名無し:2008/03/06(木) 15:07:55 ID:9pQitVO50]