あの年の夏がどれほど異常な暑さだったか、今でも肌が覚えている。
アスファルトが溶け出すような焦げ臭い熱気が、街全体を巨大な蒸し器の中に閉じ込めていた。当時、私たちは新居を探していた。世界中が疫病の恐怖に覆われ、自宅で過ごす時間が長くなるにつれ、手狭な賃貸マンションの閉塞感に耐えられなくなっていたのだ。
しかし、考えることは皆同じらしい。郊外の戸建て需要は狂ったように跳ね上がり、ネットに掲載される物件はどれも、これまでの相場からは考えられない高値がついていた。
「もう、少し時期をずらした方がいいんじゃないか」
私がそう溢(こぼ)すたび、妻は焦燥を募らせた目でスマートフォンの画面をスクロールし続けていた。彼女の指先が強張っているのが見て取れた。家族の間に流れる空気は、連日の猛暑も相まって、触れれば切れそうなほど張り詰めていた。
そんな折だ。妻がその物件を見つけてきたのは。
私の職場にも通いやすい私鉄沿線の駅近で、築年数は古いがリフォーム済みの戸建て。提示された価格は、相場より二割近く安かった。
「ねえ、ここ。すぐに見に行きましょう」
妻の声には、獲物に喰らいついた獣のような切迫感があった。ネット上の画像を見る限り、外観は重厚な日本家屋の趣を残しており、内装は白を基調としたモダンな造りに改装されているようだった。なぜ売れ残っているのか不思議なほど好条件だ。
私は胸の内に微かな違和感――うまい話には裏があるという陳腐な警句――を抱きつつも、家族の期待に満ちた視線に押され、不動産屋へ内覧の連絡を入れた。
内覧当日、約束の時間は正午だった。
太陽が天頂から容赦ない光を浴びせかけ、視界全体が白くハレーションを起こしていた。不動産屋の営業車を降りた瞬間、纏わりつくような湿気がシャツの背中を濡らす。
目の前に建つその家は、写真で見る以上に立派だった。
黒い瓦屋根に、手入れの行き届いた松の木が植えられた庭。門扉の鋳物は錆ひとつなく、強い日差しの下で鈍い光を放っている。蝉の声だけが騒がしく、周囲の住宅街は奇妙なほど静まり返っていた。人の気配がない。隣家のカーテンは閉ざされ、通りを行き交う車もない。まるでこの家だけが、世界から切り離された真空パックの中に置かれているような錯覚を覚えた。
「どうぞ、中へ。鍵は開いていますから」
案内してくれた不動産屋の男は、なぜか玄関の敷居を跨ごうとしなかった。三十代半ばだろうか、愛想笑いを浮かべてはいるが、その目は笑っておらず、視線はどこか私の背後の方へ逃げている。汗を拭うハンカチを持つ手が、小刻みに震えているように見えたのは、私の目の錯覚だったのだろうか。
「……お邪魔します」
私は努めて明るい声を出し、重厚な引き戸を開けた。
玄関ホールに足を踏み入れた瞬間、外の熱気が嘘のように遮断された。
ひんやりとした空気が足元から這い上がってくる。エアコンがついているわけではない。古い木造家屋特有の、石と木が蓄えた冷気だ。
「わあ、すごい。広いわね」
妻が感嘆の声を上げた。娘たちも新しい遊び場を見つけた興奮で、靴を脱ぎ散らかして廊下へと駆けていく。
確かに、素晴らしい物件だった。
廊下のフローリングは真新しく、壁紙は雪のように白い。水回りは最新のシステムキッチンに入れ替えられ、浴室もピカピカに磨き上げられている。古民家の梁(はり)や柱の渋い色合いを残しつつ、生活空間は現代的にアップデートされていた。窓から差し込む光が、舞い踊る埃ひとつ見えない空間を明るく照らし出している。
完璧だった。あまりにも、完璧すぎた。
私は一階のリビングから和室、そして二階の洋室へと順に見て回った。
どこを見ても欠点が見当たらない。建具の建て付けも良く、床の軋みもない。それなのに、私の身体はリラックスするどころか、徐々に強張っていくのを感じていた。
匂いだ。
微かだが、奇妙な匂いがする。
新築の建材や接着剤の化学的な匂いではない。もっと有機的で、湿り気を帯びた匂い。雨上がりの濡れた犬のような、あるいは、何年も開けていない古書のページの間から漂うような、澱んだ甘酸っぱい臭気が、真新しい壁紙の裏側から滲み出している気がした。
「あなた、どうしたの? すごく気に入ったわよ、ここ」
妻が二階のバルコニーから私を呼んだ。その顔は、ここ数ヶ月見せたことのない明るい笑顔だった。
「ああ、いい家だね。……ただ、ちょっと気になることがあって」
「気になること?」
「いや、なんでもない」
私は言葉を濁した。家族の水を差したくなかった。だが、私の本能は警鐘を鳴らし続けていた。
光の加減だろうか。部屋の隅、家具の裏、天井の四隅。視界の端に映る影が、本来あるべき濃さよりも、ほんの少しだけ黒く、深く見える。その影が、私たちが目を離した隙に、じわりと面積を広げているような気がしてならなかった。
一通り部屋を見終わり、一階へ戻ろうとした時だった。
階段の踊り場から見下ろすと、一階の廊下の突き当たり、階段下のデッドスペースにあたる部分に、小さな片開き戸があるのに気づいた。
間取り図には載っていなかった場所だ。あるいは、単なる収納として省略されていたのかもしれない。
「あそこ、見たか?」
妻に尋ねると、彼女は首をかしげた。
「いいえ、気づかなかったわ。納戸かしら」
私たちは階段を降り、その扉の前へと立った。
その扉だけが、他の建具とは異質だった。周囲はリフォームされて白いクロスや明るい色の木材が使われているのに、そこだけが、古びた焦げ茶色のベニヤ板のままなのだ。取っ手も真鍮(しんちゅう)のノブではなく、錆びついた鉄の引手が埋め込まれている。
近づくと、先ほど感じたあの「匂い」が、濃厚さを増して鼻腔を突いた。
生温かい、腐葉土のような匂い。
私の心臓が、早鐘を打ち始めた。開けてはいけない。そんな理不尽な確信が胸をよぎる。だが、物件を購入するかどうかを決めるには、全ての箇所を確認しなければならないという義務感が、私の手を動かした。
ズズッ、と重い音を立てて、扉が開いた。
中は、三畳ほどの広さの空間だった。
窓がないため、昼間だというのに薄暗い。廊下の光が差し込み、ようやく内部の様子がぼんやりと浮かび上がった。
そこは、異様な空間だった。
他の部屋が洋風にリフォームされている中で、この狭い納戸だけが、徹底して古めかしい「和」の造りを残していたのだ。
壁はクロス張りではなく、古い砂壁だった。しかも、元は鶯(うぐいす)色だったろうその壁は、湿気を吸いすぎて黒ずみ、所々に黒カビが地図のような模様を描いて広がっている。
そして、床。
畳ではなく板張りだったが、その板が奇妙に歪んでいた。
経年劣化による沈み込みではない。部屋の中央部分が、下から何かに押し上げられたように、こんもりと盛り上がっていたのだ。まるで、床下に埋められた巨大な何かが、今にも板を突き破って出てこようとしているかのように。
「……なにこれ」
後ろから覗き込んだ妻が、息を呑む気配がした。
先ほどまでの高揚感は消え失せ、彼女の声は低く震えていた。子供たちも、本能的に何かを感じ取ったのか、廊下の向こうで押し黙っている。
「カビ臭いわね。それに、なんか……気持ち悪い」
妻が後ずさりをした。
「ここだけリフォームし忘れたのかしら。ねえ、もう閉めましょうよ」
「ああ、そうだな」
私も同意して扉を閉めようとした。その時だ。私の視線が、部屋の奥、天井近くに設けられた天袋(てんぶくろ)の襖(ふすま)に吸い寄せられた。
少しだけ、数センチほど、襖が開いていた。
その暗い隙間から、白いものが垂れ下がっている。
その白い物体は、天袋の闇に浮かぶ生首のように見えた。
目を凝らす。それは白い古布を丸めて紐で縛った、てるてる坊主のような形状をしていた。だが、子供が作る愛らしいそれとは決定的に何かが違う。
布は黄ばみ、所々に赤黒い染みが花を咲かせている。首を絞めるように巻き付けられた麻紐は、布の繊維に深く食い込んでいた。そして、胴体にあたる部分に、ミミズが這ったような震える筆致で、何かが書かれているのが見えた。
『わたしを』
ひらがなで四文字。その下にも文章は続いていたようだが、布の皺(しわ)に折り込まれて判読できない。「わたしを、だして」「わたしを、みつけて」――あるいは、「わたしを、かえして」。
脳裏に最悪の連想が次々と浮かび上がるのと同時に、足裏に伝わる違和感が限界に達した。
板張りの床の中央、例の盛り上がった部分を踏んでいた右足が、ふわりと沈んだのだ。
木の弾力ではない。腐った果実か、あるいは内臓の詰まった袋を踏みつけたような、生々しく粘着質な感触。
ギチリ、と床下で何かが軋んだ。
その音は、家鳴りというよりは、押し潰された何かが肺から空気を漏らす音に聞こえた。直後、足元から立ち上る湿った土とカビの匂いが、爆発的に濃くなった。咽(む)せ返るような甘酸っぱい腐臭が鼻腔の奥に粘りつき、吐き気を催させる。
「――パパ?」
背後から、娘の無邪気な声がした。
私は弾かれたように振り返った。全身の毛穴という毛穴が開くような悪寒が走る。
見せてはいけない。
妻にも、娘たちにも、決してあの「白いナニカ」を見せてはいけないし、この部屋の異様な空気を吸わせてはならない。その直感が、理屈よりも先に身体を動かした。
「ダメだ!」
私は裏返った声で叫び、仁王立ちになって入り口を塞いだ。
家族が驚いたように身を竦(すく)ませる。私の剣幕に、妻が不安げに眉を寄せた。 「どうしたの? そんな大きな声出して」 「いや、なんでもない。ただ、ここは……虫がいたんだ。大きな虫の死骸が、たくさん」
とっさに嘘をついた。口の中がカラカラに乾き、舌がうまく回らない。
「だから、見ない方がいい。行こう、もう十分だ」
私は家族の背中を押すようにして、強引にその場を離れさせた。背後の納戸から、視線を感じる。天袋の隙間から、あの白い布の顔がじっとこちらの背中を見つめているような、粘着質な気配。
私は振り返らず、逃げるようにして鉄の取っ手を掴み、力任せに扉を閉めた。
バタン、と重い音が響く。
その直後だった。閉ざされた扉の向こうで、コト……と、乾いた軽い音が落ちたのは。まるで、吊るされていた何かが床に落ちたような音だった。
玄関を出ると、強烈な日差しが網膜を焼いた。
蝉時雨が耳に痛い。だが、その喧騒こそが、現実に帰還した証のように思えて安堵した。
不動産屋の男は、門の脇でタバコを吹かしていた。私たちが予定よりも早く出てきたのを見て、慌てて吸い殻を携帯灰皿にねじ込んだが、その表情には驚きがなかった。むしろ、「やはりそうですか」とでも言いたげな、諦めを含んだ色のない瞳をしていた。
「……いかがでしたか」
男の問いかけに、私は努めて平静を装った。
「良い家ですが、ちょっと私たちの希望とは合わなかったようです」
具体的な理由は言わなかった。言えば、あの納戸の話をしなければならなくなる。もしも彼があの部屋のことを「知って」いたら? あるいは、もしも彼にはあの部屋が「見えていなかった」としたら? どちらにせよ、関わりたくなかった。
私は早口で礼を言い、家族を車に押し込んだ。エンジンをかけ、アクセルを踏み込む。バックミラーに映るその家は、松の木陰に黒々と沈み、二階の窓ガラスが太陽を反射して、ぎらりと睨(にら)みつけているようだった。
帰りの車内は重苦しい沈黙に包まれていた。
妻も子供たちも、私の異変を敏感に感じ取っていたのだろう。「どんな家だった?」という感想戦すら始まらない。ただ、カーラジオから流れる軽快なポップソングだけが、空回りの陽気さを撒き散らしていた。私はハンドルを握り締めながら、自分の判断が正しかったと自分に言い聞かせていた。
あの部屋のことは黙っていよう。家族には、ただの薄暗い古臭い部屋だったと思わせておけばいい。あの不気味な「わたしを」という文字も、床の感触も、私一人の胸にしまっておけば、それで終わる話だ。怪異というものは、観測され、共有されることで実体を持つと言う。ならば、私が忘れてしまえば、あれは存在しなかったことになるはずだ。
それから数ヶ月が経ち、季節は秋へと移ろった。
結局、私たちは別のエリアに新築の建売住宅を見つけ、そこに引っ越すことになった。あの古民家よりも狭く、庭も猫の額ほどしかなかったが、どこにでも光が届く、明るく乾いた家だった。
あの夏の日の出来事は、忙しない日常の中で薄れつつあった。引越しの荷解きを終えた夜、私は妻とリビングで酒を飲んでいた。
新しい生活への安堵からか、酔いが回るにつれて口が軽くなる。私はふと、笑い話としてあの家のことを切り出した。
「そういえば、夏に見に行ったあの古い家さ。あそこ、やめて正解だったよな」
妻はグラスを揺らしながら、視線をテレビに向けたまま頷いた。
「ええ、そうね。……あそこは、ダメよ」
その口調が、妙に冷ややかだった。酔いが少し醒めるのを感じた。
「やっぱり、君も感じてたのか? あの納戸、カビ臭かったし」
「納戸?」
妻がゆっくりとこちらを向いた。怪訝(けげん)そうな顔をしている。 「なんのこと? あの家、一階にそんな部屋なかったじゃない」
心臓が跳ねた。 「いや、あっただろう。階段の下の、あの茶色い扉の……君も中を覗いただろう?」 私が必死に説明すると、妻は薄気味悪そうに首を横に振った。
「なに言ってるの。階段下は壁だったわよ。あなたが急に『虫がいる』って大声出して、何もない壁の前で仁王立ちになったから、子供たちが怖がっちゃって……だから早々に出たんじゃない」
言葉が出なかった。
記憶が食い違っている。いや、私の記憶があまりに鮮明すぎるのだ。あの湿気、匂い、床の感触、そして天袋の白い布。それらが全て幻覚だったというのか。
背筋に冷たいものが伝う。
妻は私の顔色を見て、冗談だと思ったのか、小さく笑って話題を変えようとした。
「やだ、あなたったら。疲れてるのよ。……それより、これ見て。あの子の荷物から出てきたんだけど」 妻がテーブルの上に置いたのは、古びたスケッチブックだった。引越しの整理で出てきた、娘の落書き帳だ。 「あの子、絵が上手になったわよね。これなんか、すごく特徴捉えてる」 妻が開いたページを見て、私の呼吸が止まった。
クレヨンで描かれた、黒い屋根の家。
その横に、四人の家族が描かれている。私と、妻と、二人の娘。
だが、私の足元だけが、不自然に黒く塗りつぶされていた。そして、私の背中に、白い何かがおんぶするようにしがみついている。
白い、布のような、てるてる坊主のような形をしたナニカ。その顔には目鼻がなく、代わりに赤いクレヨンで、ぐしゃぐしゃと文字のようなものが書き殴られていた。
『わたしを つれてきてくれて ありがとう』
全身の血液が凍りつく音がした。
私は慌てて視線を上げた。妻は微笑んでいる。いつもの優しい笑顔だ。
しかし、その笑顔のまま、彼女は私の背後の空間――何もないはずのリビングの隅を見つめて、ぽつりと言った。
「ねえ、あなた。今、誰か帰ってこなかった?」
廊下の奥、暗がりになった玄関の方から、ズズッ、ズズッ、と濡れた足音が近づいてくるのが聞こえた。
あの納戸の匂いが、新築の匂いを塗り潰すように、部屋中に充満し始めていた。
(了)
[出典:124 :本当にあった怖い名無し:2020/12/07(月) 13:24:50.83 ID:LqCxQyc90.net]