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【未解決事件】帝銀事件~戦後最大のミステリー

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帝銀事件(ていぎんじけん)とは

 

1948年(昭和23年)1月26日に東京都豊島区長崎の帝国銀行椎名町支店で発生した毒物殺人事件。(後の三井銀行。現在の三井住友銀行)

『区役所の者』と名乗る男が、集団赤痢が発生したと偽って行員ら十六人に、青酸カリ溶液を飲ませた。

行員十二人が死亡、男は現金10数万円を奪って逃走した。

捜査は難航したが8月21日、平沢貞通容疑者(57歳)を逮捕。決定的証拠がないまま1955年に死刑判決が確定した。

しかし、捜査・裁判に疑問が出され、再審請求や恩赦申し立てが繰り返された。

平沢死刑囚は無罪を主張したまま1987年、九十五歳で拘置先で死亡した。

戦後の混乱期、GHQの占領下で起きた事件であり、未だに多くの謎が解明されていない。

事件の経緯

1948年1月26日、銀行の閉店直後の午後三時すぎ、東京都防疫班の白腕章を着用した中年男性が、厚生省技官の名刺を差し出して、「支店長は居ますか」と言って入ってきた。

男は
「この近所の長崎二丁目の相田方前にある井戸を使用している所から四人の集団赤痢が発生した。この内の一人が今日、この銀行に来たことが判明したのでGHQのホートク中尉の指示もあり予防薬を飲んでもらうことになった。ホートク中尉は消毒班を指揮して後で来ることになっている」

と言った。

そして、カバンの中から医者が持っているような金属の箱を出し

「GHQよりでた強い薬なので、歯に触れるとエナメル質を損傷します。私が飲み方を教えますから同じようにしてください。薬は二種類あって、最初の薬を飲んだら一分後に次の薬を飲むように」

と言ってスポイトで行員や雑用係り夫婦とその子供ら十六人分と、この男用の湯のみ茶碗に手際良く分配した。

男は、舌を下唇と歯の間に入れて、最初の第一薬を舌の上に巻くようにして飲んで見せた。

職員はそれを見習って飲んだところ、刺激が強く胸が苦しくなった。

一分後に第二薬を飲んだが、その後バダバタと倒れて行った。

行員の村田正子は、意識が朦朧としながらも這って支店通用門のくぐり戸を開けた。

道路には二人の女学生が不審に思ったのか立ち止まっていた。

そこで村田は二人に事情を告げ、内一人が近所の長崎神社前派出所の巡査に届け出た。

巡査が同支店に駆けつけると、痙攣、嘔吐あるいは身体がまったく動かない状態の行員らが倒れていた。

巡査は、本署に通報するとともに行員の介助を行ったが十六人中十二人が死亡、四人が一命をとりとめた。

捜査

事件発生後、犯人から受け取った名刺を支店長代理が紛失していたことが判明(当時、支店長は不在)。

彼の記憶と2件の類似事件の遺留品である名刺、生存者たち全員の証言から作成された犯人の似顔絵、事件翌日に現金に替えられた小切手を手がかりに捜査は進められた。

遺体から青酸化合物が検出されたことから、その扱いを熟知した、旧陸軍731部隊(関東軍防疫給水部)関係者を中心に捜査されていた。

九研こと陸軍第9研究所に所属していた伴繁雄から有力情報を入手して、事件発生から半年後の6月25日、刑事部長から捜査方針の一部を軍関係者に移すという指示が出て、陸軍関係の特殊任務関与者に的を絞るも、突如、GHQから旧陸軍関係への捜査中止が命じられてしまう。

そんな中、捜査本部の脇役的存在でしかなかった名刺班の進めていた、類似事件で悪用された松井蔚の名刺の地道な捜査に焦点が当てられていく(この名刺班には後に吉展ちゃん誘拐事件解決で名を馳せる伝説の刑事、平塚八兵衛がいた)。

松井は名刺を渡した日付や場所や相手を記録に残していたため捜査も進んでいった。

百枚あった名刺は松井の手元に残っていたのが八枚、残る九十二枚のうち六十二枚を回収に成功し、紛失し事件に関係無いと見られた二十二枚を確認。

そして、行方が最後まで確認できない八枚のうちの一枚を犯人が事件で使用したとされた。

そして8月21日、松井と名刺交換した人物の一人であるテンペラ画家の平沢貞通を北海道小樽市で逮捕した。

平沢を逮捕した理由は、

《松井蔚の名刺》を交換した人物の一人で、平沢は名刺を持っていなかった(平沢は財布ごと盗難されたとして盗難届を出していた)。

平沢は「事件発生時刻は現場付近を歩いていた」と供述したが、そのアリバイが証明できなかった。

過去に銀行で詐欺事件を起こしている。

事件直後に被害総額とほぼ同額を預金しており、その出所を明らかにできなかった(この預金は春画を描いて売った代金とする説もあるが本人は否定、現在も出所は明らかにされていない)。
などであった。

警視庁は平沢を被害者に面通ししたが、この男だと断言した者は一人もいなかった。

逮捕当初、平沢は一貫して否認していたが、、拷問に近い平塚八兵衛の取り調べの末、逮捕から一か月後の9月23日から自供を始め、10月12日に帝銀事件と他の二銀行の未遂類似事件による強盗殺人と強盗殺人未遂で起訴された。

だが12月20日より東京地裁で開かれた公判において、平沢は自白を翻し無罪を主張するも1950年(昭和25年)7月24日、東京地裁で一審死刑判決。

1951年(昭和26年)9月29日、東京高裁で控訴棄却。

1955年(昭和30年)4月7日、最高裁で上告棄却、5月7日、死刑が確定した。

なお、この取調べはかなり厳しいものであったと言われ、平沢は逮捕された四日後の8月25日に自殺を図っている。またその後も二回自殺を図ったとの事である。

死刑確定後

支援者らは、平沢の供述は、拷問に近い平塚八兵衛の取り調べと、狂犬病予防接種の副作用によるコルサコフ症候群の後遺症としての精神疾患(虚言症)によるものであり、供述の信憑性に問題がある、また、大村徳三博士の鑑定によれば、死刑判決の決め手となった自白調書三通は、取調べに関与していない出射義夫検事が白紙に平沢の指紋を捺させたものである、として、再審請求を十七回、恩赦願を三回提出するが受け入れられなかった。

1968年(昭和43年)に再審特例法案が提出されて廃案になった後の1969年(昭和44年)に法務大臣が7人の死刑囚への個別恩赦の検討をした際には平沢も対象となったが、平沢の恩赦はされなかった。

代々の法務大臣も死刑執行命令にサインしないまま、1987年(昭和62年)5月10日、平沢は肺炎を患い八王子医療刑務所で病死した。享年九十五。

なお、平沢の死後も養子・武彦と支援者が名誉回復の為の再審請求を続け、1989年(平成元年)からは東京高等裁判所に第十九次再審請求が行われていたが、養子の武彦は2013年10月1日に亡くなっているのが発見された。

この為、2013年12月2日付にて東京高等裁判所が『請求人死亡』を理由に第十九次再審請求審理手続きを終了とする決定を下した。

平沢は獄中で三度にわたって自殺を図ったが、すべて未遂に終わった。

松本清張・小宮山重四郎などの支援者が釈放運動を行った。

1962年(昭和37年)に「仙台送り」と言われる宮城刑務所に移送。

この後支援者らの説得で平沢は恩赦を求めたが棄却。

タイム誌は東北に送ることで環境を悪くし自然死を早めようとしているのではないかと報道。

宮城への移送は当時「死刑推進派」と目された衆議院議員中垣國男が法務大臣に就任した四ヵ月後に行われた。

判決確定から三〇年が経過した1985年(昭和60年)に、支援グループは刑法三十一条の時効の規定(刑の確定後、一定期間刑の執行を受けない場合は時効が成立する)を根拠として平沢の死刑が時効であることの確認を求める人身保護請求を起こしたが、裁判所は「拘置されている状態は逃亡と異なり、執行を受けられない状態ではない」としてこれを退けた。

弁護団の団長:初代は山田義夫、二代目は磯部常治、三代目は中村高一、四代目は遠藤誠(2002年(平成14年)1月22日死去)、五代目は保持清が務めた。

養子死去のため2013年東京高裁は、すべての法的手続きの終了を発表した。

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毒物の謎

帝銀事件の犯人が《著名な画家の平沢》であったことに世間の驚きは大きかった。

しかし、事件から五十年以上経た現在も多くの謎が残されたままである。

平沢の供述は、辻褄が合わないことが実に多い。物的証拠も皆無といっていい。

例えば、毒物とみられる青酸カリ(毒物は青酸カリであると公判で認定されているが、実際に平沢の購入した事実は実証されていない)の致死量である0.3gを十六人分を適量に湯呑へ配分し、犯人自ら皆の見ている前で飲んで見せる。

しかし、犯人自身はまったく影響がなかったのである。

また、第一薬(これが毒物とみられる)から第二薬を飲ませる時間を一分後に設定していることで、完全麻痺するまでを1分間であることを犯人は十分知り得ている。

仮に即効性がある場合、一人でも急に苦しみ出したなら他の者は飲まないであろうし、吐き出すこともできたはずだ。

また、致死にいたるまでバラツキがあれば、銀行から外へ助けを求める者もいるであろう。

このように、殆ど同時に致死させるこのような手口は素人には絶対に出来ない(勿論、平沢にこのような知識はまったく無い)特殊な訓練・知識・経験が必要である。

実際に当時の捜査班は、このような毒殺に関する研究いわゆる生体実験を戦前、戦中に行っていた石井中将率いる731部隊や陸軍中野学校、登戸研究所に照準を合わせ捜査していた。

むしろ、こちらの方が名刺捜査班よりもはるかに主流捜査となっていたのである。

実際に登戸研究所の研究員だった人物の証言によると、一般に市販されている青酸カリでは即効性があり十二人同時に即死させるには困難。

服用してから一分ないし二分間の遅効性がないと本犯行はできないと指摘。

同研究所で開発していた謀殺兵器である「青酸ニトリール(青酸と有機物の合成)」に酷似しているとまで言い切った。

このニトリールは元研究所の関係者以外に絶対に入手はできないという極秘扱いの毒物だった。

ところが、ある時点でこの捜査はうやむやになったようだ。

GHQから捜査当局に圧力をかけたのではないかと、今でもささやかれている。

また、平沢自身も狂犬病であるコルサコフ病にかかっており欺瞞虚言癖や空想性虚言癖が見受けられ、終戦直後の厳しい取り調べにおいて、嘘の自供をした可能性も否定できない。

アリバイ

更に犯行当日のアリバイも非常に微妙である。

平沢は事件当日、東京駅丸の内にある旧船舶運営会に勤務している娘婿と面会している(このことは、会社の数名が目撃しておりアリバイは成立している)

その面会時間が午後二時から三十分程度と証言している。仮にこれが事実とすれば、帝銀椎名町支店には到底犯行時間の三時十分ないし二十分には着かないのである。

平沢の証言では犯行時間とされる三時頃は自宅に戻ったところで、ちょうど娘の友人でGHQの軍曹が遊びに来ており挨拶までしたと言う。

当然、平沢はアリバイを主張するが妻や娘の家族証言は採用されない。

そこで、娘の友人である米人軍曹に事情を聞こうとした矢先、突如米国へ帰国してしまった。

何故急遽帰国してしまったのだろうか。

真犯人の最有力候補・731部隊出身者

真犯人は「毒物に詳しい知識があり、そしてそれを飲んだ人間がどういった反応をして、どれくらいの時間で死亡するのかということを、実験などの経験を通して知っていた人物」というのが、毒物の方面から捜査していた警察側の見解だった。

毒物(帝銀事件の場合、青酸化合物)を人に飲ませて、死んでいく様を何度も観察したことのある人間など、そうそういるはずもないが、この時代、そのケースに当てはまる組織が事件の少し前までは日本に実在していた。

それは「第二次世界大戦」という特殊な状況の下であったからこそ作られた組織であり、「731部隊」や「登戸(のぼりと)研究所(第9陸軍技術研究所)」などが、その代表的な組織である。

それらの施設では細菌や毒物兵器の開発が行われ、その一環として死刑囚などを使った人体実験が行われていた。

帝銀事件が起こったのは、第二次世界大戦が終了して二年半ほど経った時期である。

毒物に詳しい知識を持った人間といえば、これらの組織の出身者である可能性が極めて高く、犯人として最有力候補に挙がったのは、その中でも731部隊の出身者である。

「731部隊」とは、戦争中、(現在の中国・黒竜江省の)ハルビン市に建設されていた日本軍の軍事施設で、主に細菌学および毒物の研究を行っていた施設である。代表者は、石井軍医中将で、石井部隊とも呼ばれる。

この施設では、満洲(現・中国の東北部に当たる地域)で死刑判決を出された囚人たちを使って細菌兵器や毒物などの人体実験が繰り返されていた。

実験に使われたのは主に死刑囚たちであったが、捕らえてきた罪のないソ連人、蒙古人、満州人たちも含まれ、彼らを細菌に感染させて回復具合や死亡にいたるまでの経緯をデータに取る。現存するワクチンが効かないほど強力な病原体を作り出すことが目的で、人間を内部から死に至らしめることを目的とした実験施設であった。

運良く実験から回復した人間は、再び菌に感染させられ、また実験材料となる。犠牲となった人体は数千人とも言われ、死体は骨も残さず粉になるまで焼却された。

これらの施設のスタッフであった人物であれば、人を殺すための青酸化合物の量、苦しみ具合、その時間、致死量、そして人を殺すことに慣れていることからくる落ち着きなど、全てのことに当てはまる。

だが警察が、この731部隊出身者50数名を捜査し、かなりのところまで容疑者を絞り込んだところで、突然GHQ(連合軍 総司令部)から捜査にストップがかけられた。

そして警察を通じて、報道陣にもこれ以上731部隊の報道をしないようにとの指示があった。

当時の敗戦国である日本を支配していたのは、アメリカの組織であるGHQであり、それは政府よりも警察よりも上の権力を持っていたため、GHQの言うことは絶対であった。731部隊に関する捜査も報道も打ち切られることとなった。

GHQが731部隊の捜査に関して手を引けと圧力をかけてきたのは、以下のように推測されている。

第二次世界大戦終結と同時にアメリカ側は、731部隊を始めとする、日本が行っていた細菌や毒物兵器のデータを手に入れた。

本来であれば勝ったアメリカは、このような研究をしていた部隊を、軍事裁判で厳しく処罰するか処刑するかするところであるが、このデータを提出した引き換えに研究部隊などの処罰を免除した。

戦争はどのような攻撃方法も許されるわけではなく、大正14年に施行されたジュネーブ議定書によれば、ガスや細菌兵器による攻撃は戦争では禁止されている。

にも関わらず、日本軍の行っていた細菌や毒物兵器のデータをアメリカが手に入れたということがバレれば、それは自国の軍事に役立てようという意図が明らかであって、国際的にまずいことになる。

だがこの時のアメリカは、ソ連に対して少しでも軍事を強化しておきたいところだった。

しかもそのデータの提出と引き換えに、敵側の研究の罪を許したということが発覚すればますますマズいことになる。アメリカ側にとっては731部隊の存在が世に知られること自体が困ることであって、国レベルの秘密を民間の殺人事件で引っ張り出してしまっては困るのだ。

日本警察としては毒物関係の線から、ある程度は犯人は絞り込めていたのが、時代が許さなかった。毒物方面の捜査は断念され、「名刺班」の方面から逮捕された平沢を強引に犯人に仕立て上げたというのが、ほぼ定説となっている。

昭和60年、読売新聞で帝銀事件に関する記事が掲載された。

その内容によると、犯人の行った手口は、当時の日本軍の秘密科学研究所の作成した、毒の扱いに関する指導書と同じものであり、また、目撃証言から、犯人の使用した器具はこの研究所で使われていたものとそっくりであることが判明した、というものである。

平沢の死亡後、事件の捜査を行った刑事やその関係者がこの事件のことをテレビで語ったり、手記を発表したりしているが、どれも、「犯人は平沢ではなく、元陸軍関係者である。」と主張している。

帝銀事件の捜査主任であった成智(なるち)英雄警視は、昭和47年にこの事件に関する自分の見解を雑誌に発表している。

「アリバイその他で、犯人と認められる者は、結局731部隊に所属していた医学博士の諏訪三郎 軍医中佐(51)ただ一人となった。」
「体格・人相・風体は、帝国銀行・安田銀行・三菱銀行の生き残り証言のそれとピッタリ一致している。」

こう言ったことが書かれていたが、陸軍の軍医の名簿には「諏訪 三郎」という人物はおらず、「諏訪 敬三郎」と「諏訪 敬明(のりあき)」であれば実在していた人物である。名前が似ているのは「諏訪 敬三郎」であり、彼が真犯人だということであろうか。

「小説 帝銀事件」を書いた松本清張も、後の著作「日本の黒い霧」の中で「帝銀事件の謎」として、「真犯人は731部隊の元隊員」と推理している。

後の司法関係者の誰が見ても平沢の無実は明らかであるが、戦争終了後アメリカに支配されていた日本では軍関係者の捜査が断念されて、平沢はそのまま犯人にされてしまい、悲運の生涯を閉じることとなった。

事件関連書籍・資料


小説帝銀事件/松本清張


帝銀事件の全貌と平沢貞通/遠藤誠


秘録帝銀事件/森川哲郎

帝銀事件・死刑囚/DVD

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