ミルクと砂糖をたっぷり入れたコーヒーを口に含んだ瞬間、喉の奥にいやな感覚が残る。甘いはずなのに、どこか粉っぽい。
あれから一年が過ぎた。
七月の終わりだった。暑さが飽和して、夜の空気まで重く沈んでいた。仕事帰りの電車の中で、ふいに祖母の顔が浮かんだ。病院の白い枕に沈んだ顔ではない。笑いじわの深い、あの元気だった頃の顔だ。
会わせなければ、と思った。理由はない。ただ、娘を連れて行かなければいけない気がした。
娘は二歳になったばかりだった。祖母にとっては初めてのひ孫だ。見せたいというより、間に合わなくなるという焦りに近かった。
夜の病室で、祖母は眠っていた。起こさず、耳元で小さく声をかけた。
「また来るね」
娘は私のスカートを握ったまま、祖母の顔を見ていた。
その翌日の未明、四時半。
夢を見た。
色とりどりの花が咲き乱れ、子どもたちが走り回っている。娘も笑っていた。私はなぜか安心していた。
そこに、女が立っていた。
子どもをひとり、抱えている。抱えているのか、持っているのか分からない。子どもは動かない。女の顔には表情がない。怒りも悲しみもなく、ただ空白だった。
白い車に乗り込むと、アクセルを踏み込む。こちらへ向かってくる。子どもたちが散り散りに逃げる。
私は娘の手を引き、そばにあった木造の家に飛び込んだ。
見覚えのある玄関だった。引き戸。擦りガラス。古い鍵。
中に入ると、扉を閉め、鍵をかける。窓も確かめる。
最後に残った玄関の引き戸だけが、どうしても閉まらなかった。
かちり、と鳴らない。
何度も押す。滑る。ずれる。
その隙間から、女の顔が覗いた。
昭和の古い制服のような服。茶色い三つ編み。肩のあたりで揺れる髪。目は、色が抜け落ちていた。
私は、知っていると思った。
どこでかは分からない。ただ、知っているとだけ思った。
取っ組み合いになった。押し返す。引きはがす。髪を掴んだ感触だけがはっきりしている。
真正面から顔を見た瞬間、手が止まった。
目の奥に、何もなかった。
私は蹴った。
倒れ込む音と同時に、目が覚めた。
布団の中で、娘の手を強く握っていた。夢の中と同じように。娘の手は熱かった。
七時、夫に夢の話をした。昔から悪い夢は誰かに話す。正夢にならないように。
夢の家の玄関が、祖母の建て替え前の家と同じだったことは、そのとき初めて気づいた。
昼前、母から連絡が入った。
「少し落ち着いたみたい」
ほっとした。夢のことを、同僚に笑い話のように話した。
午後、再び電話が鳴った。
祖母は、その日、息を引き取った。
葬儀のあと、誰もいない祖母の家に入った。建て替えられているはずなのに、玄関に立ったとき、夢の引き戸の感触が蘇った。
閉まらない。
そう思った瞬間、背中が冷えた。
私はあのとき、何を押し返したのだろう。
追い払ったのか。
押し込んだのか。
閉めようとして、閉めさせなかったのか。
娘は、あの日から夜中に玄関の方を見て笑うことがある。何もない方向に手を伸ばす。
私は玄関を二重にロックするようになった。
鍵をかけるたび、かちり、と鳴る音を確かめる。
それでも、ときどき思う。
あの夢で、最後に閉まらなかったのは、
本当に玄関だったのだろうか。
夜中、家のどこかで、擦りガラスがわずかに震える音がする。
ガチャリ。
誰かが入ろうとしているのか、
誰かを外に出さないようにしているのか。
まだ、分からない。
[出典:怖い話&不思議な話の投稿掲示板/投稿者「NO NAME ◆9BcKIDhM」 2013/07/21]