近所に、家族ぐるみで付き合いのある神職の一家がある。
地元では知られた旧家で、代々神社を受け継いできた分家にあたる。
本家とは別の神社を守っているが、関係は険悪ではなく、表向きはごく普通の親戚同士だった。
皆人当たりがよく、冗談も言うし、こちらが変に構える必要もない。
そういう「普通さ」があるからこそ、後で思い返すたびに、背中に薄い汗が浮く。
ある日、新車を買ったので交通安全祈願をお願いし、その流れで社務所で世間話をしていた。
相手はその家の次男で、仮にAさんとしておく。三十代半ば、今は事務仕事が中心だが、若い頃は祭事にも出ていた人だ。
冗談半分で、怖い話はないのかと聞いた。
お祓いでとんでもないものを相手にしたことはないのか、と。
Aさんは少し考えてから、首を横に振った。
「幽霊だの憑きものだのは、ほとんど来ない。思い込みの人が大半だからね」
そう言われて、やはり現実はそんなものかと思ったが、続けてぽつりと言った。
「でも、本当に怖かった体験なら一度だけある」
社務所では話しづらいと言われ、境内から少し離れた山際のベンチに移動した。
そこでAさんは、十年以上前の話をし始めた。
当時、Aさんは二十代で、神職の資格を取ったばかりだった。
今のような穏やかさはなく、本家に対して複雑な感情を抱いていたという。
本家と分家の関係は表向き対等だが、決定的な違いが一つあった。
一族は代々、そういうものが見える体質を受け継いでいる。
ただし、本家の人間だけは違った。
本家の当主と次期当主の周囲には、何かが「寄りつかない」。
見えるはずのものが、最初から存在しないかのように近づけない。
それが生まれつき与えられた加護だと知ったとき、Aさんは納得できなかった。
本家が特別なのは、ある神社の祭祀を担っているからだ。
今ある神社とは別に、かつて失われ、後に再建された神社が一つある。
その祭祀だけは、本家の当主と次代のみが行う。
分家の人間は内容を知っていても、許可なく関わることはできない。
その年、本家で異変が起きた。
次代当主となるはずだった長女が、重要な祭祀を失敗した。
急遽、追加の祭祀が行われ、本家と分家の神職が集められた。
Aさんは、その場を「機会」だと思ってしまった。
禁じられている祝詞を、当主に合わせて小さく唱えれば、何かが変わるのではないか。
そう考えた理由を、Aさん自身もうまく説明できないと言った。
ただ、若さと焦りと劣等感が重なったのだろうと。
祭祀が始まり、拝殿の空気が重くなった。
当主が祝詞を上げ始めた瞬間、Aさんも声を殺して同じ言葉をなぞった。

しばらくして、視界が歪んだ。
鏡の上に、黒い塊が浮かんでいるのが見えた。
直径一メートルほどの、形の定まらない球。
その周囲には、何重もの注連縄のようなものが絡みついていた。
それを見た瞬間、恐怖より先に、妙な確信が湧いた。
これは、見てはいけない。
黒いものから、影のような液体が滲み出し、当主の方へ伸びた。
だが、一定の距離で止まり、それ以上近づけない。
見えない壁があるかのようだった。
そのとき、はっきりと理解してしまった。
あれは守られている側ではない。
守られていない方だ。
気づいた瞬間、影がこちらを向いた。
逃げるという発想は浮かばなかった。
影はゆっくりと近づき、膝に触れた。
次の瞬間、視界が暗転した。
両目、耳、鼻に焼けつくような痛みが走り、叫んだかどうかも覚えていない。
頭の中を直接掴まれるような感覚があり、体が勝手に跳ねた。
その中で、声を聞いた。
低く、はっきりと。
「イッポン……ツナガッタ」
気がついたとき、病院のベッドにいた。
右腕は骨折しており、医者は石段から落ちたのだろうと言った。
頭部に異常はなく、数日で退院できた。
後で聞いた話では、Aさんは祭祀の最中に突然叫び、痙攣し、右腕だけを異様に振り回したという。
そして関節の向きを無視する形で腕が折れた。
当主が祝詞を終えた瞬間、すべてが止まった。
それ以降、右腕は動かない。
骨は治っている。神経にも異常はない。
それでも、動かそうとすると、どこか別の意志が邪魔をする感覚があるという。
Aさんは笑いながら言った。
「たぶん、あれは腕一本が繋がったって意味だったんだろうね」
冗談めかしていたが、その笑いはどこか硬かった。
話を聞いた後、思い出したことがある。
本家の長男と、小学校で同級生だった。
ある転校生が彼に執拗に絡み、ある日階段から突き落とした。
長男は軽傷で済んだが、その翌日、その転校生の家に雷が落ち、全焼し、本人だけが亡くなった。
雷は偶然だと思いたい。
だが、その家の跡地はいまも更地のままだ。
誰も、何も建てない。
Aさんの右腕も、今も動かない。
それが封じられているのか、使われているのか、誰にもわからない。
ただ、この土地では、今日も何事もなく人が暮らしている。
それが一番、怖い。
(了)
[出典:13 本当にあった怖い名無し:2010/03/25(木) 00:04:28 ID:DPDXOqQS0]