以前、販売業に従事していた友人が社員研修用の資料を見せてくれた。
【クレーム内容とその対応について】
クレーム対応は、
【A】『正当な事由がある場合』と
【B】『正当な事由がない場合』に大別できる。
さらに、それぞれの事象に対して、
【a】『金品、賠償、謝罪等の適切な対応によって解決が可能な場合』と、
【b】『解決が困難な場合』に細分化される。
つまり、
- 【A-a】: 正当な理由があり、善処で収まるケース
- 【A-b】: 正当な理由があり、善処では収まらないケース
- 【B-a】: 正当な理由がなく、善処で収まるケース
- 【B-b】: 正当な理由がなく、善処では収まらないケース
の四つに分類される。
この構造は明確で理解しやすい分類を提供している。
近年、この【B-b】タイプのクレームに該当する者として、『モンスターペアレント』という概念が社会に広まってきた。特に学校という環境は、この【B-b】タイプのクレーマーが集まりやすい場となりがちである。
ここでは、私が経験した中で最も困難だったモンスターペアレントとの遭遇について語りたい。
当時、私は大学で教授助手として勤務していた。その時の助手は私を含めて四人おり、在職期間が最も長い斎藤さん、一番年上の大野さん、新人の中野さん、そして私で構成されていた。
私たちが担当する学科には、男4人と女2人からなる仲良しグループの一年生たちがいた。彼らは全員が遠方から来て一人暮らしをしており、ほぼ毎日のように互いの家を訪れては共に過ごしていた。
私たち助手陣は、彼らの中からカップルが誕生するのではと興味津々で見守っていたが、どうやら特定のカップルは生まれない様子だった。
そんなある祝日、学生や教授たちは休みだったが、私たちは仕事を片付けるために大野さんを除く三人で休日出勤していた。午前中で仕事は片付いたが、全員でそのまま研究室に残り、静かなキャンパスでお菓子を食べながら談笑していた。
その時、突然電話が鳴った。祝日であるにもかかわらず電話が鳴ったため、少し戸惑いながら受話器を取ると、そこからは女性の金切り声や泣き叫ぶ声、男性の怒鳴り声、物音が混ざり合い、一瞬で電話が切れた。
静寂に包まれていた研究室に突然響いたその音に、全員が息をのんだ。
「……空気が凍りつく」とはまさにこのことだ。
誰もが事態を把握できず、動揺している間に再び電話が鳴り出した。だが、誰も受話器に手を伸ばすことができず、ただ鳴り続ける電話を見つめていた。
コール音はようやく諦めたように止まったが、間もなくまた着信があった。受けるべきか否かの議論になったが、この電話は一般公開されていない直通番号であり、相手は職員か在籍学生しか考えられなかった。最終的に「電話には出ない」という結論に至り、その日は早々に帰宅した。
しかし、翌日には事件が起きた。
朝のまだ学生が少ない時間帯に研究室で授業の準備をしていると、再び電話が鳴った。受話器を取ると、泣きながら助けを求める声が聞こえてきた。「助手さん……井田です」と震えながら名乗る声。
井田は例の仲良しグループの一員だった。彼女は泣きながら「親が大学に向かっている。逃げてほしい」と必死に訴えていたが、あまりの混乱と恐怖からか、詳細については語らず、ただ「逃げて」を繰り返していた。
混乱しながらも授業の準備があり、どう対応するべきか迷っている間に電話は切れた。
その日の午前中、他の助手が急いで駆け込んできて「総務課で学生の保護者らしき人が怒鳴っている」と伝えに来た。私と斎藤さんは急いで総務課へ向かうと、そこには昨日の電話で聞いたのと同じ怒鳴り声を上げる中年女性がいた。
彼女はカウンターを激しく叩きながら職員に詰め寄り、男性は窓口内に侵入しようとして暴れていた。文房具が散乱し、植木鉢が倒れて土が広がる混乱の中、事態の深刻さを痛感した。
私たちは対応しようと試みたが、その女性は突然私に襲いかかり、髪をつかんで激しく怒鳴り始めた。「お前らのせいだ」といった言葉が聞こえたが、何が何だかわからないまま、恐怖と混乱で思考は停止していた。
女性はすぐに引き離され、私も救出されたが、その短い時間の中でも私は心の底から恐怖を感じた。
その後、私たちは保健室に避難させられ、詳細を知ることはできなかったが、翌日、主任教授から呼び出され、井田と対面することになった。
井田は泣き腫らした顔で「ごめんなさい」と謝罪し、ようやく事件の詳細が明らかになった。
井田の両親は休日を利用して彼女の様子を見に来た際、彼女の部屋でグループメンバーと肌着姿で写っている写真を見つけ、それに激怒したのだ。怒りの矛先は娘だけでなく、私たち学校関係者にも向けられた。
「学校は娘にふさわしい友人関係を構築する環境を整えるべきである」「こうした問題を未然に防ぐために学校は何をしていたのか」といった理不尽な要求が、彼らの主張だった。
主任教授は「君たちに責任はないし、今後は井田の両親とは関わらないように」と告げ、その言葉に私たちは、状況のストレスから解放されるような安堵感を得た。
その後、井田は大学を退学し、仲良しグループの他のメンバーも次第に学校から姿を消していった。数年が経ち、助手の仕事を退いた今でも、斎藤さんとは時折飲みに行き、昔の話に花を咲かせることがある。
「娘が酔って財布を失くしたのに『友人が盗んだ』と決めつけて名簿を要求した親がいたよね」
「編入試験に落ちたのは大学のせいだと言い張っていた親もいたよね」
私たちは、そんな理不尽な要求を笑い話として酒の肴にすることもある。しかし、この経験は今でも心の底から笑い飛ばせるものではない。
(了)