青森県の恐山。この地は「死者と再会できる」という伝承が古くから受け継がれてきた場所である。
恐山は、日本有数の霊場として知られている。江戸時代には、伊勢参りのように「恐山参り」が広く流行し、遠方からの参拝客で大いに賑わったと言われている。
これは、青森に住む知人から聞いた話だ。
恐山。灰色の山肌に硫黄の匂いが漂うこの地は、霊場として古くから知られている。「ここを訪れれば、死んだ者と再会できる」という言い伝えがあり、江戸時代には「恐山参り」が盛んに行われていたそうだ。
恐山の麓に一軒の旅籠があった。簡素な木造りの建物で、狭い部屋に複数の客が相部屋になるのが常だった。その旅籠に、治助という男が居着いていた。生まれて間もなく両親を失い、孤独な身の上だった彼は、荒れた生活の果てに博打に溺れ、身上を食い潰して追われる身となっていた。恐山の麓の旅籠は、そんな彼にとって、身を潜めるには格好の場所だったのだ。
日がな一日、治助は薄汚れた布団に横たわり、酒を舐めるように飲んで過ごしていた。他の客たちは、恐山で出会った霊の話を楽しげに語り合っていた。
「死んだ母親に会えたんですよ。死んだときと同じ年でね。『お前もいつか来るんだよ』なんて言われて、なんだか嬉しくなっちゃって」
「お袋が現れたとき、思わず尻をすぼめて座る場所を空けてやったら、幽霊に笑われちまったよ」
そんな話が続くたび、治助は苛立ちを覚えた。死者に会えるなど、くだらない。そもそも会いたい者など誰もいない。親の顔すら知らないこの自分にとって、死人と再会することに何の意味があるというのか。旅籠の陰気さが耐えられなくなった彼は、ついにここを去る決心をした。
それは、夏の蒸し暑い日の昼下がりだった。荷物をまとめていると、夫婦らしい二人が音もなく部屋に入ってきた。どこか蒼白い顔をしたその二人に、治助は無言で目を細めた。見るともなく見ていると、夫婦は低い声で会話を始めた。
「蝉の声なんて久しぶりだな……」
「あぁ、20年ぶりくらいになるのかねぇ」
「そうか、もうそんなになるのか。時が経つのは早いものだ」
「でも、いい景色だ。あの世ではこんな青空も見られないからね」
夫婦の会話はどこか奇妙だった。治助が眉をひそめると、妻らしい女がぽつりと呟いた。
「……仕方ないわよ。生まれたばかりの子を置いてきたんだから」
夫は低く笑いながら応じた。
「そうだな。俺たちはその罰を受けてるんだ。親として当然だろう」
「ねぇ、あの子、無事に育ったと思う?」
「大丈夫さ。親がいなくても、子は育つもんだ」
「でも、ちゃんと真っ当に育ったかしら……? 親を恨んでいないかしら……?」
「わからんさ。もうこの世のことに未練を残しても仕方ない」
治助の中で、何かがざわめき始めた。夫婦の言葉が、まるで自分に語りかけているように感じられたのだ。
「俺たちの村も、家も、何もかも無くなっていたな」
「20年も経てば、そりゃそうだ。さ、帰るとしよう。この世のことは忘れるんだ」
「……そうね、一切を諦めて、帰りましょう」
そのとき、妻の目が治助を捉えた。静かな目だったが、そこには深い哀しみが宿っていた。そして、ぽつりと声を漏らした。
「おや……あなたも、亡くなった方に会いに来たのですか?」
その一言が、治助の中に押し込めていた何かを弾けさせた。胸が締め付けられ、全身が震えた。彼は何かを叫ぶように声を上げると、荷物を放り出し、裸足のまま旅籠を飛び出した。
山道を駆け下りるその姿を見た者は誰もいなかった。彼の行方を知る者は今もいないという。残された荷物の中には、ただ一枚の布切れだけが見つかった。それは、ぼろぼろの赤ん坊の産着だったという。
[出典:953 1/3 2012/02/23(木) 23:25:11.25 ID:5yInCtQs0]