恐山は、青森県の外れにある。
灰色の山肌から硫黄の匂いが立ちのぼり、風が吹くたび、地面の下で何かが息をしているような音がする場所だ。
古くから「死者と会える山」と言われ、江戸の頃には伊勢参りと並ぶほどの参詣者があったという。
これは、青森に住む知人から聞いた話だ。
恐山の麓に、かつて小さな旅籠があった。
木造の古い建物で、部屋は狭く、泊まり客はたいてい相部屋になる。
治助という男が、そこに長く居着いていた。
治助は、生まれて間もなく親を亡くしたと聞かされて育った。
身寄りはなく、頼れる者もいない。
働いては辞め、賭け事に溺れ、ついには借金を作って逃げるようにこの地へ流れ着いた。
恐山の麓は、人が来ては去る。名も素性も詮索されない。
治助にとっては、都合のいい場所だった。
昼間でも薄暗い部屋で、彼は布団に横になり、酒を舐めるように飲んで過ごしていた。
他の客たちは、夜になると興奮気味に語り合う。
死んだ母親に会った。
亡くなった妻が若い姿で現れた。
声をかけたら、こちらを見て笑った。
そんな話を聞くたび、治助は腹の底が冷えた。
会いたい死者など、いない。
そもそも、顔も知らない人間に会って、何になるというのか。
この山が持て囃される理由が、どうしても理解できなかった。
ある夏の日の昼下がり、治助は旅籠を出る決心をした。
荷物をまとめていると、いつの間にか部屋に二人の客が立っていた。
夫婦のように見えた。
どちらも顔色が悪く、日に焼けた気配がない。
二人は、治助がいることを気にする様子もなく、低い声で話し始めた。
「蝉の声か……ずいぶん久しぶりだな」
「本当ね。こんな音、向こうじゃ聞こえないもの」
「もう、どれくらい経ったんだ」
「二十年くらいかしら」
治助は、手を止めた。
会話の調子が、妙に噛み合っていない。
「景色は、変わったな」
「ええ。でも、思ったより何も残ってない」
「仕方ないさ。長く留まれる場所じゃない」
女が、ぽつりと呟いた。
「……生まれたばかりの子を置いてきたんだもの」
男が、静かに笑った。
「罰だろうな。逃げたままだから」
「ねぇ、あの子……生きてると思う?」
「さあな。親がいなくても、人は生きる」
治助の背中に、冷たい汗が流れた。
夫婦は、こちらを見ていない。
それなのに、言葉だけが、胸の奥に直接触れてくる。
「ちゃんと育ったかしら」
「恨まれてるかもしれないな」
「……それでも、もう確かめられない」
男が言った。
「帰ろう。この世のことは、ここまでだ」
女が、ふと顔を上げた。
その視線が、治助と合った。
「あなたも……誰かに会いに来たのですか」
治助は、答えられなかった。
喉が張り付いたように動かない。
何かを否定しようとしたが、言葉になる前に、胸の奥で何かが崩れた。
次の瞬間、彼は荷物を投げ捨て、裸足のまま旅籠を飛び出していた。
そのまま山道を駆け下りる治助を、誰も見ていない。
彼は、それきり戻らなかった。
後日、部屋を片づけた者が、荷物の中から一枚の布切れを見つけた。
赤ん坊用の、小さな産着だった。
使い古され、どこで手に入れたのかも分からない。
ただ、いつから治助がそれを持っていたのかを知る者は、誰もいなかった。
[出典:953 1/3 2012/02/23(木) 23:25:11.25 ID:5yInCtQs0]