昔から「人を呪わば穴二つ」と言う。
子どもの頃は、そういう古い言葉を、年寄りが口にするただの脅しだと思っていた。悪いことをすれば自分に返ってくる。だからやめておけ。そういう、分かりやすい教訓だと。
母を殺されたのは、小学生の時だった。
犯人は知らない男だった。金が欲しかったらしい。裁判で、遊ぶ金に困っていたと聞いた。どこかの店の名前も出ていたが、そこはもう覚えていない。覚えているのは、法廷でその男が下を向いたまま、ほとんど何も言わなかったことだけだ。
母は、あの日、ただ買い物に出ただけだった。
警察はすぐに犯人を捕まえた。近くの防犯カメラに映っていたらしい。裁判も終わった。刑も下った。周りの大人たちは、「これで少しは区切りがついたね」と言った。
区切りなんか、つくわけがなかった。
俺の家には、母が使っていた湯呑みが残っていた。洗濯物のたたみ方も、冷蔵庫に貼られた買い物メモの字も、何もかもがそこにあるのに、母だけがいなかった。
その一方で、母を殺した男は生きている。
食べて、寝て、息をしている。
そのことを考えるだけで、喉の奥が焼けるようだった。
中学生になる頃には、俺はほとんどそのことだけを考えていた。どうすれば、あの男を殺せるのか。どうすれば、母と同じだけのものを奪えるのか。
もちろん、そんなことはできない。子どもの俺にできることなんて、何もなかった。
だから、呪うことにした。
最初は半分、本気ではなかったと思う。図書館で古い本を読み、夜中にネットを漁り、誰にも見られないようにノートを作った。そこには、いかにも怪しげな言葉がいくつも並んでいた。
その中で、ひとつだけ目に引っかかったものがあった。
敵を摧くための法。
読み方も、意味も、きちんとは分からなかった。ただ、そこに書かれていた注意書きだけは、妙に頭に残った。
戻る場所を用意せよ。
そう書いてあった。
俺は、その意味を都合よく解釈した。儀式には場所が必要なのだろう、くらいに思った。
家の近くの山に、小さな祠があった。人が来るような場所ではない。石段は苔で滑りやすく、昼間でも薄暗い。祠の中には、煤けた不動明王の像があった。
俺はそこへ、夜中に一人で行った。
持っていったものは、今でも細かくは書きたくない。布で作った人形。紙に書いた名前。少しの酒。塩。火をつけるもの。それから、自分の血。
ただ、それだけだ。
祠の前にしゃがみ込むと、山の音が急に遠くなった。風も虫の声も聞こえているのに、自分の周りだけ水の中に沈んだようだった。
俺は人形を像の足元に置いて、何度も念じた。
殺してください。
殺してください。
殺してください。
声に出していたのか、頭の中だけだったのか、もう覚えていない。
ただ、途中で一度だけ、背後から足音がした。
振り返っても誰もいなかった。石段の下まで懐中電灯を向けたが、木の幹と草が見えるだけだった。
そのとき、祠の中から、かすかに息を吸うような音がした。
俺は怖くなって、用意していたものを燃やした。火はなかなか消えなかった。布が燃える匂いに混じって、髪の焦げるような匂いがした。
終わったと思った。
これであの男は死ぬ。
そう思い込んで、逃げるように山を下りた。
最初に異変が起きたのは、一週間後だった。
朝、トイレに行くと、便器の中が赤かった。痛みはなかった。ただ、体の内側から何かが少しずつ剥がれているような感じがした。
病院に連れていかれた。検査を受けた。原因は分からなかった。医者は「様子を見ましょう」と言った。
それはひと月ほどで止まった。
その次は事故だった。
登校中、歩道を走っていた俺の自転車に、車が突っ込んできた。運転手は、あとで「急に道の真ん中に人が見えた」と言ったらしい。俺には何も見えていなかった。
右足と左腕を折った。鎖骨にもひびが入った。左手の指先には、その後もしばらく痺れが残った。
その頃から、同じ夢を見るようになった。
眠っていると、足首を掴まれる。
最初はベッドの下に引きずり込まれるだけだった。次第に、引きずられる場所が変わった。廊下。玄関。夜の道。山の石段。
そして最後は、必ず穴の前に連れていかれた。
穴は、山の中にあった。底は見えない。覗き込むと、湿った土の匂いと、熱い風が上がってくる。
夢の中の俺は泣き叫ぶ。手を伸ばして、近くの草を掴む。でも、足首を掴む手は一本ではなかった。何本もあった。子どもの手も、大人の手も、爪のない手もあった。
ある夜、とうとう穴の底が見えた。
底には火があった。
それからは、毎晩そこへ落ちるようになった。落ちて、焼かれて、目が覚める。起きると、布団は汗で濡れていた。喉が裂けるほど痛かった。
俺は、そこでやっと後悔した。
あの男が死ぬなら、自分がどうなってもいいと思っていた。けれど、実際に足元がなくなる感覚を知ると、人間はそんなに強くいられない。
母に会いたいと思った。
助けてほしいと思った。
口に出したわけではない。ただ、夜になるたびに、そう考えていた。
その晩、母が夢に出てきた。
母は、殺される前のままだった。家で見ていた時と同じ服を着て、同じ顔で、俺の前に立っていた。
俺は声を出そうとしたが、体が動かなかった。
母は近づいてきた。
泣きそうな顔で笑っていた。
そして、俺を抱きしめた。
熱かった。
人の体温ではなかった。火に抱かれているようだった。服も皮膚も燃えていないのに、体の芯だけがじりじりと炙られていく。
母は、俺の耳元で何か言った。
聞き取れなかった。
ただ、最後の一音だけが、目を覚ましてからも残っていた。
「まだ」
そう聞こえた。
その日から、穴の夢は見なくなった。
俺は助かったのだと思った。
母が助けてくれたのだと。
三回忌の日、父と墓参りに行った。
母の墓は、まだ建てて二年しか経っていなかった。なのに、墓石は黒ずんでいた。雨染みや苔ではない。石の内側から煤が浮いてきたような黒さだった。
細い亀裂も入っていた。磨いても落ちないらしく、住職が困った顔で言った。
「何度か洗ったんですけどね。すぐ戻るんですよ」
父は何も言わなかった。
俺は墓石に触れようとして、手を止めた。
熱があった。
真夏でもないのに、石がぬるく熱を持っていた。線香の火が近くにあるからだと、自分に言い聞かせた。でも、線香の火はもうほとんど消えていた。
その時、父が小さな声で言った。
「お前、夜に山へ行ったことがあるか」
俺は答えられなかった。
父はこちらを見なかった。ただ母の墓を見ていた。
その横顔を見て、父も何か知っているのだと分かった。
それから何年も経った。
犯人がどうなったのか、俺は知らない。調べようとしたことはある。だが、新聞記事にも、裁判記録にも、途中から妙な空白がある。収監先も分からない。死亡記事もない。
生きているのか、死んだのか。
それすら、今は確かめられない。
母の墓は、今も黒い。
掃除しても、翌年には戻っている。亀裂は少しずつ増えている。墓石の裏側には、焦げたような匂いが染みついている。
ただ、一番嫌なのはそこではない。
母の墓の隣に、何も建っていない細長い土地がある。
もともとは、父が自分のために空けている場所だと聞いていた。夫婦墓にするのだから、別に不自然ではない。
けれど、俺が墓参りに行くたびに、その場所の土だけが少し沈んでいる。
雨のせいだろうと思っていた。
墓地の地面なんて、そんなものだと。
だが去年、住職が何気なく言った。
「ここだけ、何度埋めても沈むんですよ。まるで下に空洞でもあるみたいで」
父はもう死んでいる。
父の骨は、母の墓の中に入っている。
それでも、隣の土は沈み続けている。
この前、久しぶりに山の祠へ行った。
祠はまだあった。不動明王の像も、そのままだった。ただ、足元の石だけが黒く焦げていた。
俺が昔、燃やした場所だと思った。
近づくと、祠の奥から、何かが擦れる音がした。
中を覗いた。
像の後ろに、小さな布が挟まっていた。
古くなって、色もほとんど分からなくなっていた。けれど、それが人形の足だったことだけは分かった。
俺が燃やしたはずのものだった。
引っ張り出そうとしたが、やめた。
触ったら、まだ熱かったからだ。
その夜、久しぶりに夢を見た。
母が出てきた。
昔と同じ顔で、昔と同じ服を着ていた。
ただ、今度は俺を抱きしめなかった。
少し離れた場所に立って、こちらを見ていた。
その後ろに、穴があった。
母は悲しそうに笑って、ゆっくり首を横に振った。
そして、俺の背後を見た。
目が覚める直前、耳元で土を掘る音がした。
朝になって、足首に手形が残っていた。
子どもの手ではなかった。
母の手でもなかった。
[出典:177 :はなわ:2022/01/17(月) 01:35:52.92 ID:6ntJYL5+0.net]