昔から「人を呪わば穴二つ」と言うけれど、それをただの警句だと思っていた頃が、俺にもあった。
小学生の時に、母を殺された。
犯人は金に困っていた。理由はキャバクラで使う遊び金が足りなかったからだと、裁判で聞いた。
強盗殺人。
そういう言葉だけじゃ収まりきらない、理不尽と怒りと……あのときの俺にとっては、全てだった。
警察は、コンビニの防犯カメラの映像から足取りを掴み、一週間でそいつを捕まえた。
無期懲役。
確かに裁きは下った。でも俺の怒りは、収まるどころか膨らみ続けていった。
なぜ、母を殺した人間が生きている?
なぜ、国はそいつに三食与えて寝かせている?
なぜ、俺は、母の笑顔も、匂いも、もう一生手に入らないのに。
小さな中学生の俺には、どうにもならない現実だった。
でも、ただ黙って受け入れることなんて、できなかった。
直接殺すことは無理だ。
だけど、呪うことならできるんじゃないか。
そう思い始めた。呪いで殺せないか、毎日考えた。
図書館で調べて、ネットを漁り、誰にも見つからないようにメモを取った。
「摧魔怨敵法(さいまおんてきほう)」というものに辿り着いた。
あらゆる呪法の中でも、最も強力で、最も危険だとされるもの。
必要なのは、
・相手に見立てた人形
・白檀の筒(または代用品)
・不動明王像
・「十八道法」という供養と祈念の儀式
だった。
材料を揃えるのは時間がかかった。
白檀の代わりに、山に入って乾いた竹を切り取り、筒を作った。節に穴をあけるのが本当に大変だった。
不動明王像は思ったよりも簡単に見つかった。
地図で調べればわかる。日本中どこにでもある。
俺の家の近くの山の中に、小さな祠があり、そこにひっそりと不動像があった。
十八道法は複雑だったが、自分なりに解釈してアレンジを加えた。
とにかく大事なのは「強く念じること」だと、どの書物にも書いてあった。
人形を作ったのは金曜日の夜だった。
布に綿を詰めた簡素なものに、自分の血を染み込ませた。
鼻に指を突っ込み、爪で思い切り引っかいたら、すぐに血が溢れた。
その血を皿に溜め、人形を浸す。
目を背けたくなるような姿になったが、手を止めなかった。
俺の怒りと悲しみは、それを躊躇わせるものではなかった。
その晩、親が寝静まったのを確認して、懐中電灯と呪具を持って山に入った。
暗闇の中、石段を五分ほど登り、祠の前に立った。
不動明王の前に人形を置き、その足に押し当てて、「殺してくれ」と願った。
筒に入れ、供物を置き、塩と酒を撒き、祠の周囲を清めた。
息を殺し、耳を澄ませた。
風の音、木が軋む音、自分の心臓の鼓動。
すべてが呪いの儀式を強調するように聞こえた。
十数分後、人形を取り出して燃やした。
真夜中の山に、炎の色だけがぼんやりと浮かんでいた。
終わったと思った。
これで、あいつは死ぬ。
これで、母の仇は討てた。
家に帰って、布団に入って、夢中で眠った。
……だが、それは始まりだった。
一週間後、血便と血尿が出始めた。
下腹部に違和感を感じてトイレに行くと、便器の中が真っ赤に染まっていた。
痛みはなかったが、病院に行った。検査を受けたが原因不明。
「経過観察」と言われて通院を続けたが、ひと月後に自然と治まった。
それで終わるはずだった。
だが、次に起きたのは交通事故だった。
登校中に、車がガードレールに向かって突っ込んできた。
自転車ごと跳ね飛ばされ、右足と左腕を骨折。
鎖骨も砕け、神経がうまく繋がらず、痺れが残った。
さすがにおかしいと感じ始めた頃、夢を見るようになった。
足を、無数の手に引き摺られる夢。
最初はベッドから引き摺られるだけだった。
だがそのうち、山に連れていかれ、巨大な穴に落とされるようになった。
暗闇に落ちていく途中で目が覚める。
落下の瞬間に心臓が掴まれるような感覚がする。
十回目くらいから、夢の中で「火」を見るようになった。
穴の底に燃え盛る業火。
その中に落ちて、焼かれる。
叫びながら目を覚ます。
夜が怖かった。
布団の中で何度も泣いた。
呪いの反動だと、もう気づいていた。
「犯人が死ぬなら、俺が地獄に堕ちても構わない」と思っていたけれど……
いざ本当にその地獄の淵に立たされると、人間ってのはやっぱり弱い。
助けてくれ、と祈るようになった。
もう一度母に会いたいと願った。
そしてある晩、母が夢に出てきた。
当時のままの姿で、優しい顔で俺に近づいてくる。
涙が溢れた。
「会いたかった」と叫んだけれど、体は動かなかった。
母は悲しそうに微笑んで、俺を抱きしめた。
その体は火のように熱かった。
次に目を覚ました時、朝日が差し込んでいた。
夢を見たのに、全く疲れていなかった。
あの夢以来、地獄の夢は見なくなった。
二年目の三回忌。
父と一緒に母の墓参りに行った。
母の墓は、建立から二年しか経っていないのに、真っ黒に変色していた。
何本もの細かい亀裂が入り、磨いても落ちない汚れがこびりついている。
住職は、「何度か洗ってみたんだけどねぇ」と困ったように笑っていた。
父は黙って頷いていたが、俺にはわかった。
あれは、俺の身代わりになって、母が地獄に落ちた証だ。
俺がやった呪いのせいだ。
母は俺を助けるために……。
人を呪わば穴二つ。
そんなことわざ、ただの教訓だと思っていた。
でも今ならわかる。
「墓穴を二つ」掘る必要があるほど、人を呪うっていうのは恐ろしい行為なんだ。
俺は、母の命の代わりに、犯人への呪いを投げた。
それがどういうことなのか、本当の意味で理解したのは、ずっと後だった。
お願いだから、誰も呪いなんて使おうとしないでほしい。
どんなに辛くても、どんなに苦しくても、呪いに手を出すべきじゃない。
絶対に。
[出典:177 :はなわ:2022/01/17(月) 01:35:52.92 ID:6ntJYL5+0.net]