祖母が亡くなった夜のことだった。
通夜を終え、俺は弟とふたり、父の車を借りて家に戻る道中だった。夜はすでにとっぷり暮れて、月も雲に隠れていた。街灯のない農道を走ると、ヘッドライトの光が妙に心許なく感じられた。後部座席には誰もいない、はずだったが、なぜかルームミラーに何度も視線を戻してしまう。
家の車庫に車を入れ、ドアを閉めたとき、弟がぽつりと呟いた。
「なんかさ……さっきからずっと、車の後ろについてきてる気がする」
「気のせいだろ。野良犬でもいたんじゃないか?」
そう返したけれど、弟の顔は真っ青だった。見慣れた家の玄関前で、震える声で「見えた」とだけ言って、走るように家に入っていった。
翌朝になっても、弟は布団から出てこなかった。葬儀の支度が進む中、「外に出たくない」と繰り返す。理由を聞いても口を閉ざし、目だけをぎょろぎょろ動かしていた。
結局、弟は祖母の葬式に来なかった。俺と両親だけで式を終え、夕方に帰宅すると、弟は何食わぬ顔で居間のソファに座っていた。
「え、今日……もう終わったの?」
目が据わっていた。何かが外れてしまったような、やけに軽い口ぶりだった。
その日から、一週間後くらいだったか。弟の様子がさらにおかしくなってきた。
仕事も休みがちになり、部屋にこもるようになったかと思えば、深夜にバタバタと物音がして、翌朝には自室の壁に半紙が何枚も貼られていた。
「入ってくる。玄関じゃない、天井からも壁からも来る……」
部屋中にびっしり貼られた御札の文字は、ネットで拾った情報を元に自分で書いたものだとあとで知った。
日が経つにつれて御札の数は増えていった。両親は心配を通り越して、うんざりしていた。
「おかしくなったのかもしれない」と母がこぼし、父がようやく菩提寺に連絡をとった。
副住職のAさんが家を訪れた。御札を少し調べ、「とりあえずこれを玄関に貼っておいて」と半紙を渡して帰っていった。心ここにあらずといった顔つきだった。
だが、その日の晩、Aさんが同期のBさんという僧侶に相談していたという。あとで聞いた話だ。
「あの御札、逆効果だよ。あれ、呼び込んでる」
「なんだって?」
「本気の憑き物だよ。四つ足のもの。恨みが根っこにある」
それから、ちゃんとしたお祓いをするからすぐ家に行ってくれ、とBさんが言ったそうだ。御札を全部剥がして、清めの読経を行い、弟に加持を施せと。
けれど、Aさんが忙しく、なかなか時間がとれなかったらしい。そうして、二週間が過ぎた。
そして、あの日が来た。
俺が煙草を吸っていた夕方のことだ。珍しく弟が居間に出てきて、ぼんやり笑っていた。
「もう大丈夫だよ。なんか、すっきりした」
そう言いながら、窓の外を見つめていた。空は曇っていて、風が少し吹いていた。俺はそんな弟を横目に煙を吐きながら「よかったな」とだけ返した。
その数秒後だった。
「うわっ!!」という声が上がり、ガシャアッという音が響いた。
顔を向けると、窓ガラスに頭を突っ込んだ弟が倒れていた。目を見開いたまま、血を流して動かなかった。
すぐに救急車を呼んだが、病院に着く頃にはもう……手遅れだった。
母は取り乱し、父は無言のまま床を見つめていた。俺は何が起こったのか理解できず、ただ呆然としていた。
後日、俺はAさんに電話をかけた。あれは一体なんだったのか、何が弟をそうさせたのか。
Aさんは、やはり心残りがあったようで、Bさんと再度話をしてくれた。すると、その家には「物がある」という結果が出たそうだ。
方角と場所をもとに探していくと、裏手の雑木林の中に小さな祠があった。石が苔に覆われ、誰にも顧みられていない様子だった。
その祠の奥に、ひとつの布が埋められていた。
赤黒く染まった布に、油性マジックで書かれた名前が見えた。
――弟の名前だった。
それだけじゃない。父の名、母の名、そして俺の名までが並んでいた。
誰が、何のためにそんなものを……。だが、それを掘り返してしまった瞬間、空気が変わった気がした。
ぬるりとした湿気が背後から立ち昇るような、異様な風の匂いが鼻先にまとわりついた。
その瞬間、足元の土が、ひとりでに凹んだように見えた。
それ以降、俺の家では仏壇に手を合わせるとき、必ず窓を閉めるようになった。
理由を訊かれても、答えられない。ただ、あの弟の笑い声だけが、いまもどこかで、風に乗って聞こえてくる気がするんだ。
……どこかで、まだ終わっていないような気がする。
[出典:954 :本当にあった怖い名無し:2021/11/05(金) 20:46:20.73 ID:kHCSeknP0.net]