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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

時空のおじさん nw+

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あれは昨日の晩だったと思う。いや、もう正確な時間は思い出せない。

思い出せないというより、あの時間帯だけが、最初から存在しなかったみたいに抜け落ちている。

仕事が早く終わった日だった。まだ空が青さを残している時刻で、そのまま帰るのも味気なく、いつものスナックに寄ろうと思った。駅から五分の雑居ビルの五階。くたびれた外観とは違って、中は落ち着いた店だ。もう何年も通っている。

「今日は三千円だけ」

財布から千円札三枚を抜き、胸ポケットに入れた。飲み過ぎないための癖だ。儀式みたいなものだ。

エレベーターに乗り、五階のボタンを押す。
「チン」という音とともに扉が開いた。

違和感は、その瞬間にあった。

白い。
壁も床も天井も、白い。

元々白基調のフロアだ。だが、何かが違う。
ドアも、店名のプレートも、案内板も、全部が塗り潰されていた。取っ手も、隙間も、影もない。ただ平らな白い面が続いている。

店のあった位置は覚えている。体が覚えている。そこに立っているはずなのに、目の前にはただの壁があるだけだった。

静かすぎた。
空調の音も、街の喧騒も聞こえない。

冗談めかして「全部引っ越したか」と考えたが、その考え自体が場違いに感じられた。ここは、営業をやめた後のフロアではない。もっと根本的に、何かが欠けている。

戻ろうとエレベーターのボタンに手を伸ばしかけたとき、「チン」と音がして扉が開いた。

誰も呼んでいないはずだ。

中には男が立っていた。

作業着姿、六十代くらい。現場帰りのような格好。だが、目が乾いていた。瞬きをしない。奥で、弱い光が揺れている。

男は俺を見て言った。

「なぜ、ここにいる」

怒鳴りはしない。だが、怒っている。

「いつもの店に来ただけです。五階に上がったら、何もなくて」

男はフロアを一瞥し、低く言った。

「ここは、ダメだ。入っちゃいけない」

言葉は単純だが、意味が通じなかった。立入禁止という響きではない。
存在の仕方そのものを否定するような言い方だった。

俺は無理に笑った。

「塗装中とかですか」

男は首を振った。

「そうじゃない。ここは少し、外れてる」

外れている。
何から、と聞く前に理解した。
場所が、世界から。

背中が冷えた。

エレベーターに乗ろうとすると、男が穏やかな声で言った。

「そっちじゃない。少し待って」

ポケットから携帯を取り出し、ボタンに触れずに耳に当てる。

沈黙のまま、うなずく。

「……はい。ヒグスデンカあげ、お願いします」

聞き慣れない単語が、白い空間に落ちた。
意味を考えた瞬間、足元の感覚が薄れた。

男がこちらを見て言う。

「悪かったね」

その言葉が終わる前に、周囲の輪郭が静かに剥がれた。

気づいたとき、ビルの前に立っていた。

エレベーターの記憶がない。降りた感覚もない。
映像の途中が丸ごと切り取られたみたいに、場面が飛んでいる。

腕時計は二十三時半を指していた。

ビルに入ったのは十九時半前後だったはずだ。
四時間近く、何もない。

胸ポケットを探る。
千円札三枚は、そのまま入っていた。

飲んでいない。
何もしていない。
ただ、時間だけが消えている。

あの男は何だったのか。
「外れてる」とはどこから。
ヒグスデンカとは何を上げたのか。

あれ以来、ビルには近づいていない。
スナックも、まだ営業していると人づてに聞いた。五階にある、と。

けれど俺には、もう五階が存在しているように思えない。

ときどき、白い廊下の匂いがする。
瞬きを忘れた目が、どこかでこちらを待っている気がする。

もしまた、あのエレベーターに乗ってしまったら。

今度は、何を上げられるのか。

──時間だけで済むとは、思えない。

[出典:449 :1/2:2010/08/25(水) 00:24:15 ID:2VfEeng00]

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