あれは昨日の晩だったと思う。いや、正確なところはもうよくわからない。
どういうわけか、今でもあの時間帯だけぽっかり抜けているような感じがしてるんだ。
仕事がいつもより早く終わった日で、帰るにはちょっと物足りなかったから、馴染みのスナックに寄って一杯やろうと決めた。
その店、もう何年も通ってるんだ。駅から五分ほど歩いた雑居ビルの五階にあって、ビルの見た目はくたびれてるけど、店の中は静かで落ち着いてる。
「今日は三千円だけ使おう」って財布から千円札三枚抜いて、胸ポケットにしまった。これ、俺の癖でさ。飲みすぎるのを防ぐための儀式みたいなもん。
エレベーターに乗って、チンと鳴って五階に着いた時だった。
扉が開いた瞬間、妙な感覚に襲われた。見慣れたはずのフロアが、どうにもおかしい。
真っ白だったんだ。壁も床も、天井も。いや、そこまでは構わない。元々白基調のビルだったから。
でもドアも、看板も、案内プレートも、全て塗りつぶしたみたいに真っ白になっていて、どこに何の店があるのか一切わからなかった。
まるで夢の中の世界に紛れ込んだみたいで、足がすくんだ。
最初は冗談みたいに「全部引っ越したとか?」なんて軽く考えてた。
けど、あのママが急に店を畳むわけがないし、他の店まで一斉に出ていくなんて非現実的だ。
スナックの前に立ってたはずなのに、そこには真っ白な無地の板みたいな壁が広がっているだけ。店のあった輪郭すら感じられなかった。
おかしい、おかしいって思いながら、再びエレベーターのボタンを押そうとしたんだ。
でも押す前に、「チン」って音がして、ドアが勝手に開いた。
さっき俺が乗ってきたばかりのエレベーターだ。誰も呼んでいないし、誰も乗っていないはずだ。
だが、扉の向こうには見知らぬ老人がいた。
作業着を着た男で、年は六十代くらい。現場仕事してるような格好だったが、その顔が……何というか、今でも思い出すと心臓が冷たくなる。
皮膚が異様に乾いてて、目の奥に妙な光があったんだよ。生きてる目じゃない。
その男が俺を睨みつけながら、いきなりこう言ったんだ。
「なぜ、ここにいる?どこから入った?」
怒鳴るってほどじゃない。でも確実に怒っていた。
怖かったけど、何かの事情があるんだと思って、落ち着いて答えたよ。
「いや、いつものスナックに来ただけで……五階に上がってきたら、何もなくなってて」
すると男は、低い声でぼそっと言った。
「ここは、ダメなんだよ。入っちゃいけないところなんだ」
その言葉、どういう意味なのか一瞬わからなかった。
白い空間、異様な静けさ、誰もいないビル……すべてが不気味に繋がっていく感覚。
俺は冗談でこう言った。
「塗装中ですか?知らなくて、すいません」
すると男は、首を横に振って、小さく笑った。
「ううん……そうじゃなくて、ここは少し……外れてるんだ」
そう言った時の「外れてる」という言葉の重さ。普通の意味じゃなかった。世界の「場所」がずれてる、そんな印象だった。
俺は震えながらエレベーターに乗ろうとした。
そしたら男が、やたら丁寧な口調でこう言った。
「そっちじゃないよ。ちょっと待っててくれる?」
そしてポケットから携帯を取り出して、ボタンを押さずに耳に当てた。
ダイヤル操作すらしてないのに、確かに誰かと通話してる様子だった。
「……あ、はい。では、ヒグスデンカあげ、してください」
「ヒグス……デンカ?」
何を言ってるのか聞き取れなかったが、俺がそうつぶやいた時、男がまた口を開いた。
「悪かったね、怒鳴ったりして」
その言葉が終わる前に、意識がフッと薄くなった気がする。
いや、「意識」というよりも、周囲の現実が音もなく剥がれていったような。
気づいた時には、ビルの前に立っていた。
何がどうなったのか、まったく説明できない。エレベーターに乗った記憶も、下の階に降りた感覚もなかった。
まるで、映画のカット編集みたいに、空間が切り替わっていた。
呆然としながら腕時計を見たら、二十三時半。
それがおかしい。だって俺がスナックに行こうとしたのは、まだ陽が落ちきる前だった。
仕事が終わって、ビルに着いたのは十九時半くらいだったと思う。
二時間、いやもっとか……記憶がまるごと消えてるんだ。
「夢か?」と、何度も自分に問いかけた。
だが、胸ポケットを触った瞬間、体の奥が凍りついた。
そこには、確かに俺がさっき入れた千円札三枚があった。小銭すら使っていなかった。
つまり――俺は何もせず、何も飲まず、時間だけを失ったということになる。
あの男は誰だったのか?
「少し外れてる」とは何を意味していたのか?
ヒグスデンカ……って、何の暗号だったのか?
今もなお、俺の中ではあの時間がどこかに残っている気がする。
ふとした瞬間、またあの白い空間に引きずり戻されるんじゃないかって、そう思ってしまうんだ。
もうあのスナックには行ってない。いや、ビルそのものに近づけない。
もしもまたあのエレベーターに乗ってしまったら……今度は、戻って来られない気がするんだ。
[出典:449 :1/2:2010/08/25(水) 00:24:15 ID:2VfEeng00]