音に形があるのを知ったのは、あの山を見た夜だった。
私の故郷は福岡の奥まった盆地で、どの方向を向いても山が囲む。幼い頃はそれを「世界の端」だと思っていた。夏の夜には蛙の声が幾重にも重なり、冬には霧が村を呑む。
その霧が濃い日、決まって現れるのが「朧の山」だった。
山の向こうに、もうひとつ、少しだけ大きな山が浮かび上がる。
その姿はいつも、ぬるい鏡越しに本物の山を覗いたようで、表面がわずかに波打って見えた。
幼い私はそれをただの蜃気楼と思っていたが、大人たちは違った。
「朧の山が出た日は登るな。死ぬぞ」
祖父がそう言っていた。
その“出現”は決まって静かな日だった。風もないのに霧だけが動く。
霧の粒が肌に当たる感覚があり、呼吸するたびに喉が冷たくなる。
犬が吠える声も途中で吸い取られ、耳の奥が妙に詰まる。
それが朧の山の“訪れ”だった。
村では昔から、山が現れた日には外に出ないという掟があった。
山菜採りの婆さえ、その日ばかりは戸を閉めてじっとする。
理由を聞いても「知らん」としか言わない。
ただ、山の中には“あっちの風”が吹く、と言う。
私は高校を出てすぐ村を出た。就職も結婚も都市で済ませた。
二十年ぶりに村に帰ったのは、父の葬儀のためだった。
冬の終わり、霧が出ていた。
駅からバスに揺られて山道を上る。車窓の外は灰色の海のようで、谷も川も輪郭を失っていた。
集落が見え始めたころ、私は無意識に息を止めた。
そこに――あった。
父の墓の後ろに聳えるあの山、そのさらに奥。
白く滲む空に、もうひとつの山が重なっていた。
幼い頃に見たままの形。丸い山の後ろに、鋭く尖った影。
私は思わずバスを降り、霧の中を歩き始めた。
空気はぬめり、足元の砂利が湿って音を立てない。
家々の瓦がしっとりと黒光りし、煙突から立つ煙もまっすぐに上がらず、そのまま横に流れる。
人の姿がない。犬も鳴かない。
霧の向こうに山が脈動するように見える。
ふと、路地の奥で白い人影が立っていた。
女のように見えた。
髪が長く、顔の向きが定まらない。
霧が厚くなるたびに姿がにじむ。
その口元がわずかに動いた気がした。
――「戻ったと?」
耳の奥で囁きがした。
それが声か風かわからない。
胸が冷たく沈み、足が勝手に前へ出る。
気づくと私は、集落の端にある登山道の入り口に立っていた。
霧の中から、細い石段が伸びている。
昔、大男が登って死んだというのはこの道だったか。
彼の死体は両目がえぐられていたと聞いた。
それを思い出したとき、足元の砂利がかすかに鳴った。
後ろを振り返っても誰もいない。
だが、もう一度前を見たとき、階段の先にあの女がいた。
こちらに背を向け、ゆっくりと登っていく。
霧の粒が彼女の輪郭にまとわりつき、まるで霧そのものが女の体を形づくっているようだった。
気づけば私は彼女を追っていた。
呼吸が浅くなる。
霧の中で方向感覚が崩れ、どこからか笑い声が響く。
女の声だった。
「ギャハハハハハ!!!」
乾いた高笑いが山肌に跳ね返り、何度も私を包む。
それが自分の喉から漏れているようにも感じられた。
霧の奥に手を伸ばす。冷たい。だが指先に確かな感触がある。
それは、湿った髪の感触だった。
女がこちらを振り向いた。
顔が、ない。
あるはずの場所が霧にえぐられたように空洞になっていた。
そこから、笑い声だけが漏れている。
私は叫んだつもりだったが、音は出なかった。
霧の中で声が吸い取られる。
耳鳴りのように、別の音がした。
「――おまえ、見えてるのか」
気づけば私は、山のふもとから自分を見上げていた。
霧の向こうに、山道を登る誰かがいる。
その姿が、かつての自分に見える。
私は声を出そうとするが、もう喉が動かない。
体は冷え、霧と一緒に溶けていくようだった。
霧の音が満ちる。
それは風でも水でもなく、人の呼吸が幾重にも重なった音だった。
その中に、女の笑いが混じる。
次に目を開けたとき、霧は晴れていた。
私は山のふもとの墓地に立っていた。
手の中には、小さな木の札が握られていた。
墨で「登拝者」と書かれていた。
誰の字か、わからなかった。
その夜、村の老人に会った。
私の顔を見るなり、目を伏せて言った。
「……見てしまったんなら、もう帰れん」
今は都会の部屋にいる。
けれど夜になると、窓の外に山の影が浮かぶ。
霧は出ていない。
それでも、窓を開けると、あの笑い声が微かに響く。
遠くで、誰かが登っている音がする。
[出典:899 :本当にあった怖い名無し 警備員[Lv.6][新芽]:2025/01/29(水) 19:14:48.22ID:r4VQyCGR0]