ネットで有名な怖い話・都市伝説・不思議な話 ランキング

怖いお話.net【厳選まとめ】

中編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

⭕️ n+

更新日:

Sponsord Link

六月の、雨が上がったばかりの生ぬるい空気。窓は少し開けてあった。

今でもあの夜の匂いを思い出すと、胸の奥がざわつく。それは、夕食の準備が始まったばかりの台所から漂う、醤油と焦げかけた油の微かな匂いだ。

午後六時を少し過ぎた頃、部屋はまだ薄明るく、蛍光灯はつけていない。湿気た空気の粒が、光を乱反射させ、家具の縁を鈍く光らせていた。あのとき、座っていた畳の感触、肌に張り付く汗の感覚まで鮮明に残っている。

静かだった。父は休みで隣の和室で新聞か何かを読んでいるはずだが、その物音すら吸収してしまうような、重たい静けさが部屋を満たしていた。まるで、分厚い布を被せられたような聴覚の環境。

部屋の隅で唸りを上げている旧式の扇風機。首振り機能は壊れていて、真横だけをただ律儀に撫でるように風を送っていた。その微かなモーター音だけが、あの空間に生き物がいる証拠だった。

竹製の耳掻きは、祖母が旅行土産にくれたものだ。軸は細く、先端の梵天は薄く煤けている。手触りは滑らかで、指先に乗せたときの重量は限りなく軽い。これを左耳に差し込んでいる。

右耳は開いている。開いているはずなのに、なぜかそこだけが、周囲の音から切り離されているような気がしていた。音の方向性が曖昧で、すべてが頭の中で鳴っているような錯覚。

父が隣室で咳払いをした。その音は襖一枚隔てているにもかかわらず、やけに近く、そして遠く聞こえた。距離感が捻じ曲がっている。その違和感が、これから起こる出来事の微かな予兆だった。

部屋の空気の温度は安定していたが、なぜか背中だけがじんわりと冷たい。湿気のせいか、それとも他の何かが、自分の視界の隅に入り込んでいるせいか、判別がつかない。

左耳の奥を撫でる、竹軸の微細な振動に意識を集中させていた。

耳掻きは一種の瞑想だ。外界の音を閉じ込め、自分だけの内側の感触に没入する。その瞬間の快感が、五年生か六年生だった自分の、ささやかな日常の逃避だった。

右手の親指と人差し指が、耳掻きを持つ竹の節を辿る。その触覚の集中を邪魔するように、どこからか、微かに低い「話し声」のようなものが混ざってきた。それは明確な言葉になっていない。ただ、人が二人、低い調子で何かをやり取りしているような、そんな気配。

まさか、父と母の会話だろうか。だが、母は台所にいる。台所はここから二つの部屋を隔てた向こうだ。それに、台所の二人はもっと騒がしいはずだ。微かな油の匂いしかしない。

耳掻きをやめるべきか、逡巡する。この「話し声」は、外界のものか、それとも耳掻きの軸が頭蓋骨に伝える、体内の音の反響か。判別がつかないことが、微かな苛立ちとなった。

「聞こえる、けど、聞こえない」という曖昧な状態が、意識を濁らせる。耳掻きを僅かに深くする。快感が強まる。外側の不穏を内側の快感で打ち消そうとする、子供特有の幼稚な防衛本能だった。

鼓膜のすぐ手前、皮膚が微かに波打つ。快感と痛みの境界線。そこに意識が固定された瞬間、「話し声」が少しだけ大きくなった気がした。声は、右耳、つまり耳掻きをしていない方から聞こえる。

無意識に、首を少しだけ右に傾けた。右耳の開口部で、その「音」の正体を捉えようとする。それは隣室の父の声ではない。もう少し、体温が低い、乾いた、性別の定まらない声。

逃げられない状況。耳掻きを抜くのが、面倒で、億劫だった。体は椅子に固定され、竹軸を抜き去るという、単純な動作すら、この不穏な空気の中で遂行することが億劫になっていた。

耳掻きの竹軸を持つ手に、かすかな汗が滲む。

集中が乱され、体が固くなる。その瞬間、座っている椅子ごと、背後から何かに強く押されたような衝撃があった。ドン!!という、短く、重い、湿った打撃音。

物理的な衝撃。椅子は畳の上で僅かに滑り、体が揺れる。その揺れに、左耳の竹軸が深く、鋭く突き刺さった。ズブリと、皮膚の膜が破れるような、水っぽい感触が、脳の奥まで響いた。

激痛。あまりに突然で、あまりに鋭い痛み。反射的に耳掻きを手放す。竹軸は畳の上に転がり、先端の煤けた梵天が揺れる。頭を抱え、左耳に触れると、ぬるりとした液体が指先に纏わりついた。血だ。

痛みと衝撃で、周囲の音がすべて、遠い汽笛のように歪んで聞こえる。泣き声のようなうめき声が、自分の喉から漏れたことを認識した。痛い、痛い、と、ただそれだけを反復する感覚。

その、痛みが最高潮に達し、身体が機能停止した瞬間。開いたままの右耳、その鼓膜のすぐ横で、まるで誰かが口を寄せたかのように、低い声が囁いた。

無視すんなよ……

音量は大きくない。だが、その声の熱と湿度が、皮膚を直接撫でたような錯覚。そして、その声に含まれる、粘りつくような、怒りと、諦念と、寂しさが混ざり合った感情。

右耳で捉えた声は、鼓膜を破った左耳の激痛を、一瞬で上書きした。痛みは身体の出来事だが、声は、魂の出来事だった。これは幻聴ではない。体の外側から、熱を持って発せられた音だ。

声の主が、「無視すんなよ」と言った。自分は、一体、何を無視していたというのか。椅子を押し、鼓膜を破ったその「何か」と、この「声」は、同一のものなのか。混乱が、痛覚を凌駕した。

うめき声を上げる私を、隣室の父が聞きつけた。

畳を擦る足音と、襖が開く音。その直後、「どうした!」という父の、焦燥に満ちた声が耳に飛び込んできた。父の声は、現実の、物質的な響きを持っている。

父が私の肩を掴み、血に染まった左耳を見て、一瞬言葉を失う。その父の存在が、右耳元にいた「何か」を追い払ったかのように、部屋の空気は急速に、通常の温度に戻っていくようだった。湿気た空気も、父の体温と、父の声の持つ質量に押され、薄れていく。

父は冷静にティッシュを探し、耳を覆わせた。そのとき、畳に落ちた竹軸の耳掻きを、父が視線で追った。「何にぶつかったんだ?」と問う。だが、私には答えられない。椅子が押されたのだ。部屋には自分と、椅子と、扇風機と、家具しかない。そして、父は隣室にいた。

病院へ向かう車の中で、頭の中で声が反響する。「無視すんなよ……」。声の主は、私に話しかけていた。そして、私は、その声に気づきながら、耳掻きの快感で、あるいは恐怖から、反応しなかった。それが、あの事故の引き金だったのだろうか。

病院での診察は簡素だった。鼓膜の穿孔。幸い、手術の必要はなく、自然治癒を待つことになった。薬剤師が渡した薬袋の、無機質なビニールの匂いだけが、その夜の出来事を現実のものとして刻んでいた。

そして、その夜。自室に戻り、床に就いた。左耳は鈍い痛み。右耳は、微かな、聴覚の過敏さ。部屋は暗く、再び扇風機の唸り声だけが響いている。布団に潜り込み、目だけを閉じた。

ふと、天井を見上げたとき、気づいてしまった。右耳のすぐ上、枕のすぐ横の壁紙に、微かな汚れがある。それは、まるで、誰かの顎の先が、長い間そこにあったかのように、薄く黒ずんだ、半月状の跡だった。あの声の主が、壁に顎を乗せ、私の耳元に口を寄せていたのではないか。

その黒ずみは、私自身の体温よりも低く、湿っているように感じられた。そこに、さっきまで誰かの体温があった。私の存在を、私の耳掻きの快感を、ずっと見ていた、聞いていた何かの痕跡。

それから数週間、鼓膜は塞がり、聴力は元通りになった。

以前よりも、むしろ敏感になった気がする。微かな音も拾ってしまう。しかし、あの「無視すんなよ」という声は、二度と聞かれなかった。

成長し、あの出来事も「痛かった」「怖かった」という思い出の一部になった。大学に進学し、アパートで一人暮らしを始めた夜のことだ。深夜、参考書を広げ、集中して作業をしていた。

その夜も、静かだった。エアコンの室外機の低い唸り声だけが、部屋の外から微かに聞こえる。私は右耳にイヤホンを差し込み、静かなピアノ曲を聞いていた。外界の音を遮断し、集中するための、ささやかな工夫だ。

ふと、左耳の鼓膜の奥で、微かな「話し声」のようなものが混ざってきた。明確な言葉になっていない。ただ、人が二人、低い調子で何かをやり取りしているような、そんな気配。

まさか、隣室の住人の会話だろうか。だが、彼らはもっと騒がしいはずだ。微かな音しかしない。その「話し声」は、外界のものか、それとも頭蓋骨に伝わる、体内の音の反響か。判別がつかないことが、微かな苛立ちとなった。

イヤホンを抜くのが、面倒で、億劫だった。

その時、体が揺れるほどの、短い、重い、湿った衝撃音が、椅子の背後で鳴った。ドン!!と。反射的にイヤホンを抜き去る。そして、開いたままの左耳、その鼓膜のすぐ横で、まるで誰かが口を寄せたかのように、低い声が聞こえた。

話があるのに、無視すんなよ……

音量は大きくない。だが、その声の熱と湿度が、皮膚を直接撫でたような錯覚。そして、その声に含まれる、粘りつくような、怒りと、諦念と、寂しさが混ざり合った感情。その声は、過去に私が聞いた、あの声と、寸分違わぬ響きを持っていた。

私は、あの時、自分自身が、あの日の「声」になってしまったことを理解した。あの夜、私を襲ったのは、他者ではなく、未来の私だったのだ。

[出典:873 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :03/10/19 01:42]

Sponsored Link

Sponsored Link

-中編, 奇妙な話・不思議な話・怪異譚, n+2025

Copyright© 怖いお話.net【厳選まとめ】 , 2025 All Rights Reserved.