彼らが「口を開く」のは、酒のせいじゃない。
ムラ氏はそう言って笑った。机の上の一升瓶を顎で示したとき、私はそれを取材道具のひとつだとしか思わなかった。古びた家具に囲まれた部屋は薄暗く、窓の外の街灯が壁に私たちの影を貼り付けていた。ムラ氏の手帳やメモはいつも通り雑然としていて、紙の束が生き物みたいに机の端から垂れていた。
ムラ氏はフリーの社会派ライターだった。被差別部落だの、公園だの、行政の手が届かない場所を回り、路上生活者に過去を聞き取っていた。なぜここに来たのか。何を失って、何を捨てたのか。その筋書きを集め、いつか本にするのだと言っていた。
「でも、そんな簡単に話してくれますか」
「裏がある」
ムラ氏は、わざとらしく声を落とした。
「酒で緩むのは口じゃない。境目だよ」
境目。彼はその言葉を、確かめるように舌に乗せた。私は意味を取り損ねたまま、相槌だけ打った。
「境目が緩むと、混じる。本人もどっちが自分の話か分からなくなる。その瞬間が一番使える。記事にはしないけどな」
「使えない話ってことですか」
「使えない。危ない」
ムラ氏はタバコに火をつけた。ライターの火が一瞬だけ彼の顔を照らし、目が笑っていないのが見えた。
「未来から来たって言い張る奴がいた。天咲二十四年から来たって」
私は笑った。ムラ氏の口から出るには、出来の悪いオカルトだと思った。
「元号を勝手に作ってませんか、それ」
「作ってない。俺が言う前からそう名乗ってた。天咲って字まで指定してきた」
ムラ氏は手帳を探り当て、私に開いて見せた。そこに確かに、見慣れない元号が書かれていた。
天咲二十四年。
次の瞬間、私の中で何かが抜けた。
音もなく、視界の端が薄く擦れるような感覚だけがあって、記憶の連続がそこで切れた。停電の暗さではなく、いままで当然あった「繋がり」が消えた感じだった。
次に気づいたとき、ムラ氏が同じ手帳を指で押さえ、続きを読んでいた。
「その時代の首相は、森という女だ。初の女性首相。名字は森。下は書けないってさ」
「書けない?」
「言うと忘れるって。言った瞬間、こっちの耳から抜ける。本人もそう言ってた」
私は冗談だと思って笑おうとしたが、口角が上がらなかった。今、自分が何を聞き逃したのかが分からない。なのに、聞き逃したという手触りだけが残っている。
「未来では、都心に巨大な屋根ができて、その中に道路も公園も団地も入る。外という概念が薄い。でも地方はそのまま。混在するって」
「汚染とか、災害とかですか」
「理由は言わない。言うとこっちが不利になるって」
ムラ氏はページをめくる。手帳の紙は擦り切れて、角が黒ずんでいた。私はそこに書かれた字を追おうとした。追えない。視線は字面の上を滑るのに、意味が頭に入ってこない。読む前に、読むという行為が抜け落ちる。
「で、その未来人は十五のとき、突然この時代の代々木に出たらしい。激しく取り乱して保護された。でも身元がなくて、結局、逃げた。拾われて、十八年、ずっと公園にいる」
「戸籍がないから働けない、と」
「そう。戸籍がないから、ここに固定される。固定されるから、未来に戻れない。戻れないから、未来の言葉だけが残る」
ムラ氏はそこで手帳を閉じた。
「記事にしないのは、荒唐無稽だからですか」
「違う。あれは荒唐無稽じゃない」
ムラ氏は灰を落とし、私を見た。
「荒唐無稽にしないと危ない話なんだ」
その夜、私は自宅へ帰った。駅前の明るさに安心しながら歩いたのに、足元だけが不安定だった。舗装された道なのに、わずかに沈む。私は酔いのせいだと思うことにした。
翌朝、出勤前にスマホでニュースを見た。政治の話題が流れていた。私はふと昨夜の「森という女」を思い出し、鼻で笑った。笑ったつもりだった。
画面の端に、知らない元号が出ていた。
天咲。
見間違いだと思って指でこすった。こすっても消えない。リンクを開くと、年号表記が続いている。天咲二年。天咲三年。天咲四年。
私は検索した。検索欄に「天咲」と打ち込んだ瞬間、予測変換が大量に出た。元号、天咲、天咲政府、天咲制定、天咲二十四年。
指が止まった。
二十四年。
昨夜、確かに聞いた。聞いたはずだ。だが、昨夜の会話の前半が思い出せない。どこから話が未来人になったのか、その繋がりが抜け落ちている。
私はムラ氏に電話した。繋がらない。昼にもう一度。夜にもう一度。留守電はない。メッセージも既読にならない。
三日目、私はムラ氏の部屋へ行った。
鍵は開いていた。ドアが少しだけ浮き、隙間から薄い暗さが漏れていた。部屋に入ると、家具の配置が違った。机の位置が変わっている。いや、変わっているのは私の記憶の方かもしれない。どちらにしても断言できない。
机の上には、手帳がなかった。メモ帳も切り抜きも、散らかっていたはずの紙の束もない。かわりに、きれいに整理されたファイルだけが積まれていた。タイトルには、見慣れない書式の数字が並んでいる。天咲十六年。天咲十七年。
私はファイルを開けた。
中身は、私が書いた覚えのない原稿だった。語り口は私そのものなのに、内容が空白のように薄い。そこには「ムラ氏(仮名)」と書かれていて、彼は既に亡くなっていることになっていた。死因は、事件を追って命を落とした。遺体から手帳は見つからなかった。
私はページをめくりながら、背中が冷えた。
いま開いている文章が、まさに私の手元にある。私が読んでいる。なのに、私はこれを書いた覚えがない。
最後の行に、短いメモが付いていた。ボールペンで殴り書きされている。私の癖だ。
「ここまで読んだら、もう遅い。元号を確認するな」
私は反射でスマホを取り出し、日付を見た。
天咲二十四年。
瞬間、頭の中が真っ白になった。白いというより、紙の裏側から光を当てたときみたいに、内容が透けて消える。自分の名前が、住所が、今日の予定が、順に剥がれていく。最初に消えたのは、ムラ氏の本名だった。仮名しか思い出せない。次に消えたのは、電話番号だった。通話履歴からも消えていた。最初から登録していなかったみたいに。
私は慌ててファイルの原稿に目を戻した。
そこには、今の私がした行動が追記されていた。ページの端に、新しい行が増えている。インクが乾いていない。だが、ペンはどこにもない。机の上は整いすぎていて、私が何かを置いた形跡がない。
追記は、こうだった。
「元号を確認した。次は、読者が確認する」
私は、その行を読んだ瞬間に理解した。
これは未来予知の話じゃない。元号の話でもない。手帳の話でもない。
「確認する」という行為が、境目を緩める。酒はただのきっかけ。口が軽くなるのではなく、現実の方が軽くなる。軽くなると混じる。混じったものは、後から整えられて、最初からそうだったことにされる。
だから、手帳は見つからない。見つからないのではなく、見つからない世界に整えられる。
だから、ムラ氏は死ぬ。死ぬのではなく、死んだことに整えられる。
そして、この文章は、最初から転載だったことに整えられる。
私は原稿の末尾を探した。出典の行があるはずだ。なければ困る。あるから安心する。ある方が安全だ。
ページの最後に、確かに書いてあった。
[出典:176 :未来予知スレから転載 1/3:2010/07/31(土) 22:24:42 ID:EHe8ix6E0]
私は、そこで息が止まった。
二〇一〇年。そんな昔に、この元号があるわけがない。天咲は、ついさっき見たばかりだ。なのに、出典は最初からそう言っている。最初から。最初から。
私は画面を閉じようとして、手が止まった。
閉じる理由が分からない。読む理由も分からない。分からないのに、指だけが勝手に動く。確認する。確認する。確認する。
ムラ氏が言っていた。「境目が緩むと混じる」。その境目は、酒じゃない。記憶じゃない。文章と現実の境目だ。
私は、もう一度日付を見た。
天咲二十四年。
次の瞬間、私は、ここまで読んだことを忘れる。