今でも、あの夜の録音を再生する勇気が出ない。
スマホのストレージに残っているのはわかっているのに、指が勝手に止まる。
削除すればいい。そう思っても、なぜか消せないまま三年が経った。
その録音は、大学最後の夏、寮で行った怪談大会の記録だ。
地方都市にある古い学生寮で、元は社員寮だったという鉄筋三階建て。
湿った廊下の匂いと、夜中に聞こえる水道管の音が常に薄く鳴っていた。
冷房もなく、みんなで扇風機を囲んで、氷の入ったプラスチックのコップを回していた。
私は、卒論の調査で疲れ果てていた。
それでも八月の終わり、寮生全員で「最後の思い出を作ろう」と、共有スペースに集まったのだ。
十人ほど。テーブルの中央に置かれたスピーカーと、私のスマホ。
音声入力アプリを立ち上げ、「怪談大会・録音テスト」とマイクに向かって言った。
スマホの画面に白い波形が浮かび、声を正確に文字に変換していく。
みんながそれぞれ、自分の地元の怖い話を語った。
山道の老婆、廃校のトイレ、トンネルの人影。
どれも定番で、笑い混じりだった。
ただ、Bだけは違った。地元がこの寮のすぐ裏の集落だという。
「じゃあ俺、ここらの話をするわ」
そう言って、Bはペットボトルの蓋を閉め、静かに背筋を伸ばした。
「この寮、建つ前は、川沿いに小さな製材所があってな……」
スマホの画面に、Bの声がそのまま文字となって打ち込まれていく。
──『女が木くずの中で笑っていた』
──『白い服で、口だけ動いていた』
Bの話は、妙に湿っていた。
話の途中から、変換された文字が乱れ始めたのだ。
“……きくず”“わらって”といった、壊れた音節。
みんなが黙り込む中、Bの声が次第に低く、こもっていく。
聞き取れないほどの早口。
アプリの画面には、誰も言っていない単語が現れた。
──『ねむいねむいねむい』
──『かわまでいこう』
私は笑ってごまかそうとしたが、喉が乾いて声が出なかった。
「おいB、何それ冗談?」と誰かが言ったが、Bは俯いたまま唇を動かしているだけだった。
指先が震えて、スマホを止めようとした瞬間、画面が真っ白に光った。
一瞬、停電したのかと思った。
でも照明はついていた。
スマホだけが、異様な熱を持っていた。
私は慌ててテーブルに置いたまま後ずさりした。
波形の上に黒い線が走り、変換された文章が滲んで消えた。
そして、新しい行が浮かび上がった。
──『いま 話しているのは だれ』
それを見た瞬間、Bがうめくように笑った。
「ここまでにしよ」
その一言で、全員が息を吐いた。
録音はそのまま保存された。誰も再生しようとしなかった。
翌朝、Bは朝食に来なかった。
部屋を覗くと、ベッドは乱れておらず、靴もあった。
ただ、机の上に私のスマホが置かれていた。
Bが触るはずのない機種だ。
画面には、昨夜の音声入力アプリが開かれたままになっていた。
『川までいこう』の文字が、淡く点滅していた。
その後、警察が動いた。
近くの川の堰(せき)のあたりで、Bのサンダルが片方だけ見つかった。
遺体は見つからなかった。
私は、あの夜の録音を証拠として提出することをためらった。
あれを再生すれば、また何かが始まる気がしたからだ。
卒業後も、私は録音を消せずにいた。
春に機種変更しても、データは自動で移行されていた。
音声ファイルの日付は、いつのまにか「更新済」と表示されている。
開いていないのに。
そして一昨日。
夜中にスマホが自動で起動した。
「音声入力を開始します」と無機質な声。
画面の中央に、白い波形が浮かび、誰もいない部屋の空気を拾っていた。
波形の下に、ゆっくりと文字が打ち出された。
──『いま 話しているのは あなた』
私はスマホを裏返した。
画面は真っ黒になり、反射した光の中に、自分の顔が見えた。
唇が勝手に動いた。
音は出ていなかったのに、波形は呼応するように震えていた。
その瞬間、私は理解した。
録音を再生することなんて、もうしていたのだ。
あの夜からずっと、音声入力は止まっていなかった。
[出典:533 :あなたのうしろに名無しさんが・・・:04/03/27 04:07]