今でもあの話を思い出すと、背中の皮膚がざらつくように粟立つ。
これは下請けの現場で時々顔を合わせるコウさんから、酒の抜けきらぬ昼間にぽつりと聞かされたことだ。
コウさんは四十五歳前後、肩幅がやたら広く、冬でもランニング姿で汗を飛ばしながら鉄骨を担ぐような男だ。
けれど嫁の前に立つと、あれほどの腕力が萎んだ風船のようにしおれ、首をすくめて「はい、はい」と答えるばかりらしい。
その落差が可笑しくも哀れで、現場仲間からはよく肴にされていた。
そんな彼が、待ち時間の灰色のプレハブ事務所で「おまえ、怖い話好きやろ?」と口を開いた。
真っ黒に日焼けした顔に、妙な翳りが浮かんでいた。
「十五年ほど前、気味の悪いもんを見てしもてな」
と、それはあまりに唐突で、私はうっかり笑みを漏らしかけてしまったが、彼の眼差しは笑ってはいなかった。
——舞台は夏の山中。
谷あいに築かれる砂防ダムの工事現場。
昼間はセミの声と重機の唸りで耳が麻痺するほど賑やかだが、日が落ちればただ湿った土と油の匂いが残り、深い闇が覆うばかりの場所だった。
作業を終えて車で帰ろうとしたとき、弁当箱をバックホウの操縦席に置き忘れていたことに気づいた。
「嫁に知られたら終わりや。二日越しの弁当箱を洗わされるのは地獄や」
その恐怖が背を押し、彼はまた現場へ引き返したのだ。
谷に響く音は、夜の冷気の中でいっそう鋭く耳に刺さる。
「バシャッ、バシャッ」
水面を叩く音。
照明はなく、闇は濃く、バックホウの影がうっすらと月明かりに浮かぶ。
その奥から、確かに規則的な水音がしていた。
身体の奥で臆病さがざわめいたが、「嫁の怒声」の幻聴がそれを上回った。
彼は足を土砂に沈ませながら音の方へ歩いた。
——そこに、いたのだ。
土のうの山の上。
水をせき止める壁の上に、ひとつの人影が立っていた。
スキンヘッド、全裸。
体には墨のような模様が絡みつき、湿気を帯びた皮膚が月明かりにぎらつく。
そいつは棒を握り、水面に叩きつけていた。
「ヤクザが魚を獲っとるんか……?」
コウさんはなぜか、必死に現実的な解釈を探そうとした。
だが、田舎の山奥で、裸で、闇の中で。
理屈は自壊し、ただ「見てはならないもの」に出会った感覚だけが濃く残った。
目を逸らせば済んだのかもしれない。
けれど耳に絡みつく水音が、どうしても気になった。
棒が水を叩くたび、ぶよぶよとした塊が水面に揺れる。
視線を凝らすと、それは猿や鹿の死骸だった。
毛皮が剥がれ、白んだ眼球が水に浮かび、腐臭が湿気と混ざって鼻腔に忍び込む。
裸の人影はその死骸に棒を落とし、時折その棒を唇に当て、舐める仕草を見せた。
「うわああああ!」
声を抑えられず、叫んでしまった。
その瞬間、動きが止まり、ゆっくりとこちらを振り向いた。
目が合った。
瞳孔が膨らみきり、白目の大部分が闇に光っていた。
棒を投げ捨て、そいつは土のうを跳ねながら迫ってきた。
「なああああ! なああああ!」
意味を成さない声を吐き、腕を振り回しながら。
コウさんは踵を返し、車へ全力で走った。
息が荒く、喉が鉄臭く焼ける。
車に飛び込み、エンジンをかけた手が汗で滑った。
それでも彼はシフトをバックに入れた。
夜の谷を、車は後退のまま暴走した。
闇を切り裂くバックライト。
谷底のカーブもお構いなしに、後輪は砂利を跳ね上げ、車体は軋んだ。
国道に飛び出すまで、一度も振り返らなかった。
事務所に駆け込んだときには、息も絶え絶えで言葉にならず、夜勤の監督に「異常が起こった」とだけ伝えた。
家に逃げ帰ったときには、背中から冷汗が流れ続けていたという。
翌日、コウさんは会社に顔を出さなかった。
現場どころか、仕事そのものを辞めてしまった。
「行けるかい、あんな気色悪い場所」
彼は苦々しく言い捨てた。
「結末が分からないって、中途半端ですね」と私が言うと、
「アホか。大変やってんぞ」
と、ふてぶてしい口調が返ってきた。
結局、弁当箱は取り戻せなかった。
嫁には叱られ、新しい弁当箱も買ってもらえず、タッパーで凌いだらしい。
その顛末のくだらなさに、場は少し和んだ。
けれど彼の顔には、あの夜の残像が張り付いたままだった。
背筋の奥に残る冷たさは、単なる笑い話で終わるにはあまりに濃い。
——何よりも腑に落ちないのは。
その夜の現場から、山の獣の姿が一斉に消えたという噂だ。
鹿も猿も、狸も、翌週からぱったり見られなくなった。
もしもあの裸の人影が、獣を殺していたのではなく——獣そのものだったとしたら。
彼が弁当箱を探しに戻った理由さえ、獣の声に誘われたのだとしたら。
今も、谷を渡る風に「なああああ」という声が混じっている気がする。
[出典:304 名前:ノブオ ◆x.v8new4BM [sage] :04/10/01 19:58:18 ID:pUeNCmB3]