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中編 山にまつわる怖い話 n+2026

静止した午後 nc+

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その場所には、特有の「重さ」があった。

重力というよりは、湿気を含んだ気圧が、皮膚の表面に絶えずへばりついているような感覚に近い。

私が通っていた大学は、関東平野の縁にある丘陵地帯を強引に切り拓いて建てられていた。正門から見れば、ガラス張りの研究棟や手入れされた芝生が並ぶ近代的なキャンパスだが、その実態は、分厚い森林に三方を囲まれた孤島のようなものだ。特に工学部棟の裏手に広がる雑木林は、大学の敷地なのか、それとも国有林なのかも判然としないまま、鬱蒼とした緑が斜面を這い上がっていた。

当時の私は、講義に出るふりをしては、その裏手の山へ逃げ込むのを日課にしていた。単位は足りていたが、人間関係の単位だけが致命的に不足していた時期だ。教室の蛍光灯の白さや、食堂に充満する揚げ油と若者の熱気が、どうしようもなく息苦しかった。

私が「指定席」と決めていたのは、獣道とも呼べないような斜面を十分ほど登った先にある、わずかな平地だった。かつて誰かが不法投棄したらしい古タイヤが半分ほど土に埋まり、苔むしてベンチ代わりになっている。周囲はクヌギやコナラの巨木が陽光を遮り、真昼でも薄暗い。地面は常に腐葉土の湿った匂いを放ち、歩くたびにジュクジュクと黒い水が滲み出した。

そこで安煙草に火をつけるのが、一日のうちで唯一、私が深呼吸できる儀式だった。
紫煙を肺の奥まで吸い込み、吐き出す。煙は湿気を含んだ重い空気に阻まれ、上へは昇らずに、私の顔の周りで白い澱(おり)となって漂った。

視界の開けた場所からは、眼下に大学のキャンパスが一望できた。箱庭のような校舎。蟻のように行き交う学生たち。彼らのざわめきや、どこかのサークルが練習しているブラスバンドの音色――その日は確か、『威風堂々』だったと思う――が、風に乗って断続的に届いていた。遠くを走る国道のトラックの走行音、タイヤがアスファルトを噛む乾いた摩擦音。それらはすべて、ここまでは届かない「向こう側」の出来事として、安全な距離感を持って響いていた。

私はその特権的な孤独を愛していた。世界が勝手に動いているのを、舞台袖から眺めているような優越感と、そこに含まれない自分への微かな自己嫌悪。その二つがない交ぜになった感情を煙草の煙で包んで、時間を浪費する。それが私の青春の、実質的なすべてだった。

異変は、何の前触れもなく訪れた。
それは火曜日の午後二時過ぎのことだ。
三本目の煙草を取り出し、百円ライターのダイヤルを擦った瞬間だった。

「シュボ」

小さな着火音が、鼓膜に痛いほど大きく響いた。
普段なら、風の音や木々の葉擦れにかき消されるはずの些細な音が、まるで防音室の中で鳴らしたかのように、鋭く、純粋に響いたのだ。

違和感に顔を上げる。
ライターの火が、揺れていなかった。
山の中腹には常に微風が吹き抜けているはずなのに、オレンジ色の炎は、まるでロウ細工のように垂直に直立し、微動だにしない。
煙草に火を移すのも忘れ、私はその奇妙な炎を見つめた。そして気づいた。

音が、消えている。

徐々にフェードアウトしたのではない。スイッチを切ったように、世界から「音」という概念がごっそりと抜き取られていた。
先ほどまで鼓膜を撫でていた風の音、遠くの国道の走行音、下手くそなトランペットの旋律、数千人の学生が発する生活音。それらが完全に消失していた。
耳鳴りすらしない。自分の心臓の音さえ聞こえない。
完全な無音。それは静寂という生優しいものではなく、聴覚という感覚器官そのものが麻痺したかのような、暴力的なまでの「無」だった。

私は慌てて口を開き、「あ」と声を出そうとした。

しかし、喉の筋肉が動き、空気が震える感触はあるのに、音として耳に届かない。まるで分厚い真空の壁に隔てられたかのように、私の声は口を出た瞬間に消滅していた。
恐怖よりも先に、理解不能な生理的嫌悪感が背筋を駆け上がった。
反射的に立ち上がろうとして、足元の落ち葉を踏みしめる。カサリ、とも言わない。枯れ枝が折れる感触は足裏にあるのに、それは無言劇のパントマイムのように無音で砕けた。

私は眼下の大学を見下ろした。
そこには、異常な光景が広がっていた。

誰も、動いていなかった。

正門から本館へと続く並木道。そこを歩いていたはずの女子学生のグループが、談笑の途中で凍りついたように止まっている。片足を上げ、口を半開きにしたまま、彫像のように固まっていた。
グラウンドでは、サッカーボールを蹴り上げようとした男子学生が、空中で静止している。ボールもまた、重力から見放された惑星のように、彼のつま先から数センチの空中に浮いたまま止まっていた。
遠くの国道を見れば、トラックも乗用車も、すべてがアスファルトの上に縫い付けられたように停止している。

世界が、止まっていた。
あるいは、私だけが時間の隙間に転がり落ちたのか。

私は震える手で、吸いかけの煙草を口にくわえた。先端の火種だけが、唯一の動くものだった。チリチリと灰になっていく様子が見える。だが、煙は揺らがない。吐き出した煙は、私の口の形を保ったまま、空中に不気味な白い塊として固定されていく。

温度が変わった。
じっとりとした湿気が消え、肌を刺すような冷たく乾いた空気が満ち始めた。
それは秋の涼しさなどではなく、冷蔵庫の奥のような、無機質で人工的な冷気だった。
匂いも変質していた。腐葉土の土臭さが消え、代わりに漂ってきたのは、古い図書館のような、あるいは消毒液のような、埃っぽくも清潔すぎる匂い。

私は衝動的に斜面を駆け下りようとした。この異常な静止画の中から脱出しなければならないという本能的な警報が脳内で鳴り響いていたからだ。
だが、体が思うように動かない。空気が水飴のように粘度を増している。一歩足を踏み出すのに、泥沼を歩くような労力が必要だった。
もがくようにして数メートル進み、木の幹に手をかけた時だ。
その手触りに、私は悲鳴を上げそうになった(もちろん、声にはならなかったが)。

木の幹が、硬質すぎた。
樹皮のザラザラとした感触ではない。まるでプラスチックか、精巧に作られたFRP(繊維強化プラスチック)の造形物に触れているような、冷たくツルツルとした感触だった。
恐る恐る、足元の雑草を引き抜いてみる。
ブチリ、という感触はなく、それは根元からポロリと取れた。断面を見る。
そこには繊維も水分もなく、ただ灰色の一様な断面が覗いていた。
作り物だ。
この山も、木々も、土も。
精巧なジオラマの中に、私だけが生身のまま放り込まれたような錯覚。いや、錯覚ではないかもしれないという確信。

講義棟の方へ目を凝らす。
窓ガラス越しに見える教室の中も、やはり静止していた。教授が黒板にチョークを押し付けたまま固まり、学生たちが居眠りをしたりノートを取ったりする姿勢で硬直している。
だが、何かがおかしい。
距離があるためはっきりとは見えないが、彼らの顔が、のっぺりとしているように見えた。目鼻立ちが曖昧で、まるで描きかけの絵画のような、あるいは解像度の低い画像のような。

「ここは、どこだ?」

音のない言葉を反芻する。
ここは大学の裏山ではない。いや、大学の裏山という「設定」の、別の場所だ。
ふと、空を見上げた。
太陽があるべき場所には、白く発光する光源があった。だがそれは太陽特有の眩しさや熱を持たず、手術室の無影灯のように、ただ冷徹にこの書き割りのような世界を照らしているだけだった。空の青さも、ペンキで塗りつぶしたように均一で、雲ひとつない。

その時、強烈な視線を感じた。
誰かが私を見ている。
この静止した世界の中で、私以外に「意識」を持つ何かがいる。

視線の主を探して、私は首を巡らせた。
音のない世界で、私の心臓の鼓動だけが、肋骨を内側から叩く振動として伝わってくる。
視線は、上からだった。
私の頭上、数メートル上の木の枝。
そこに、一羽の鴉(カラス)が止まっていた。

それは、周囲の「作り物」の風景の中で、明らかに異質だった。
黒い羽の一枚一枚が艶やかに濡れ、瞳はどす黒い光を湛えて、明確な意思を持って私を見下ろしている。
その鴉だけが、この世界で唯一、私と同じ「生きた」存在であるように見えた。あるいは、この世界の管理者か。

鴉は、小首をかしげた。
その動作は、観察する科学者のようでもあり、獲物を品定めする捕食者のようでもあった。
そして、ゆっくりと嘴を開いた。

世界が身構える気配がした。
真空パックされた空間に、針が突き立てられる予感。

「カァ」

その鳴き声は、甲高く、そしてあまりにも巨大だった。
鼓膜を突き破り、脳髄を直接揺さぶるような轟音。
それは鳥の声というよりは、巨大な鉄の扉が錆びついた蝶番を軋ませて開く音、あるいは、世界というシステムが強制的に再起動される時の警告音のように聞こえた。

その瞬間、ダムが決壊したかのように、世界に「時間」と「音」が雪崩れ込んできた。

「カァ」という裂帛(れっぱく)の気合いが空気を引き裂いた刹那、世界は暴力的に再稼働した。

ドォン、という衝撃波のような圧力が全身を叩いた。
同時に、私の鼓膜へ何万もの音が雪崩れ込んできた。
止まっていた風が唸りを上げて鼓膜を殴打し、遠くの道路からはタイヤの摩擦音とエンジンの回転数が、圧縮されたデータのように一気に解凍されて押し寄せる。
眼下のキャンパスからは、数千人の話し声、笑い声、足音が、巨大なノイズの塊となって私の脳髄を蹂躙した。
トランペットの『威風堂々』は、テープの早回しのような金切り声を経て、唐突に間延びした本来の旋律へと戻った。

「ぐ、あ……ッ」

私は耳を塞いでその場にうずくまった。
過負荷に耐えきれず、三半規管が狂ったように回転する。
視界の中で、空中に静止していたサッカーボールが重力に従って落下し、止まっていた女子学生が談笑の続きを再開し、鴉はバサリと羽音を立てて虚空へと飛び去った。

作り物めいたプラスチックのような質感は消え失せ、土は再び湿った腐葉土の臭いを放ち、木の幹は粗野な樹皮の手触りを取り戻していた。
ただの日常が戻ってきたのだ。
あまりにも当たり前の、しかし数秒前までは完全に欠落していた「時間」の流れが、奔流となって私を洗い流していく。

私は激しい眩暈(めまい)と吐き気をこらえながら、その場で荒い息を繰り返した。
心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。
恐怖というよりも、深海から急浮上したダイバーがかかる減圧症のような、強烈な身体的苦痛だった。
世界が動いている。音が聞こえる。風が肌を撫でる。
その当たり前の事実が、恐ろしくもあり、また涙が出るほど愛おしくもあった。

結局、その日は日が暮れるまで、私は古タイヤのベンチから動くことができなかった。
講義が終わるチャイムが遠くで鳴り、学生たちが駅へと向かう波が見え、やがてキャンパスに街灯が灯り始めるまで、私は膝を抱えて震えていた。
指先には、あのプラスチックのような冷たい草の感触が、幻肢痛のようにこびりついて離れなかった。

それから卒業までの二年間、私は何かに取り憑かれたように、あの裏山の場所へ通い詰めた。
講義などそっちのけで、雨の日も風の日も、あの古タイヤに座り、煙草をふかした。
もう一度、あの「空白」を味わいたかったのだ。
あの絶対的な静寂。社会の歯車から完全に切り離され、標本箱の昆虫のように世界から隔絶される、あの背徳的な安らぎ。
そして何より、あの鴉の鳴き声と共に世界が色と音を取り戻す瞬間の、脳が焼き切れるようなカタルシス。
あれは、どんな麻薬よりも強烈な体験だった。

だが、あの現象が二度と起きることはなかった。
裏山はただの薄暗い雑木林に戻り、鴉はただの薄汚い鳥として、ゴミ捨て場を漁るだけになった。
私はただのサボり癖のある学生として、無為な時間を浪費し続けただけだ。
やがて私は就職し、大学を去り、あの場所のことも日々の忙しさの中に埋没させていった。

そうして十年が過ぎた。
私は今、都内のオフィスビルの一角で働いている。
空調の効いた快適な室内。窓の外には首都高速が走り、無数の車が川のように流れている。
同僚たちのタイピング音、電話のベル、コピー機の駆動音。
それらの音に包まれながら、私はふと、あの日のことを思い出す。

本当に、世界は「元に戻った」のだろうか?

最近、妙な感覚に襲われることがある。
会議中、熱弁を振るう上司の顔が、ふとした瞬間にのっぺりとした、作りかけの粘土細工のように見えるのだ。
満員電車で押し合う乗客たちの背中が、硬質なプラスチックの塊のように感じられることがある。
そして、オフィスの窓から見える夕焼けが、あまりにも鮮やかすぎて、誰かがペンキで塗りたくった書き割りのように見える瞬間がある。

あの時、鴉が鳴いて世界が動き出したあの日。
再起動したのは、本当に「元の世界」だったのだろうか。
もしかすると、私はあの時、本物の世界から弾き出され、精巧に作られた「複製の世界(レプリカ)」の中に再配置されただけではないのか。
あるいは、私自身がすでに「標本」の一部として固定されており、今こうして生活していると思っているこの意識こそが、ガラスケースの中で見ている長い夢なのではないか。

先ほどから、オフィスの音が遠い。
キーボードを叩く指の感触が、妙にツルツルとして、生体反応を感じない。
窓の外を見る。
高速道路を走る車列が、不自然なほど等間隔で並んでいる。

そして、聞こえた。
ビルの二十階、開かないはずの窓の外から。

「カァ」

甲高い、あの鳴き声が。
反射的に顔を上げると、ガラスの向こう、空中に静止した一羽の鴉と目が合った。
その瞳は、十年前と同じように、艶やかな黒色で私を見透かしている。

鴉が口を開く。
次の瞬間、世界から音が消えるのか。
それとも、私が消される番なのか。

私の手の中にあるボールペンが、音もなく床へと落ちていく。
それが床に届くまでの時間が、永遠のように長く引き伸ばされていくのを、私はただぼんやりと眺めていた。

(了)

[出典:677 :本当にあった怖い名無し:2012/01/27(金) 14:02:10.47 ID:ULlUCM7OO]

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