これは、夜の仕事をしていた二十歳の女性から直接聞いた話だ。
当時の彼女は、同じ店で働く一つ年上の女性と、繁華街に近いアパートで同居を始めたばかりだった。鉄筋三階建ての二階、和室と洋室がひとつずつある、ごく普通の間取り。家賃も立地も条件がよく、初めての二人暮らしには申し分なかった。
引越し初日、彼女は用事があって実家に戻り、同居人だけを部屋に残した。翌日の昼過ぎに戻ると、同居人は和室の布団から起き上がることもできず、顔色を失って震えていた。
夜中じゅう、和室から音がしていたのだという。
「カリカリ」「コリコリ」と、何か固いものを爪で削るような音が、途切れることなく続いたらしい。壁の向こうではなく、畳のすぐ下か、部屋の内側から鳴っているように聞こえたという。
彼女は笑って「ねずみじゃない」と言った。古いアパートではよくある話だ。同居人は何度も首を振り、違うと訴えたが、それ以上は言わなかった。その日から同居人は高熱を出し、仕事にも行けなくなった。
数日後、彼女自身もその音を聞くようになった。
ただし、深夜まで酒を飲んで帰る生活だった彼女は、その音を子守歌のように聞き流して眠った。確かに音はしていたが、怖いとは感じなかった。
八日目の朝、インターフォンの音で目が覚めた。
ドアの向こうに立っていた警察官は、淡々と「上の階の住人が亡くなっていた」と告げた。死後かなり時間が経っていたらしく、階段には消えない臭いが残っていたという。
その日を境に、同居人は何も言わず部屋を出て行った。連絡もつかず、荷物も半分ほど置いたままだった。
彼女は一人で住み続けた。
音は変わらず、夜になると和室から「カリカリ」「コリコリ」と鳴った。相変わらず、彼女は気にしなかった。
しばらくして、新しい恋人ができた。初めて泊まった夜、彼は真顔で言った。
「歯ぎしりみたいな音がする」
和室の方を見つめながら、音の出どころが分からないと首をかしげていた。
それきり、彼は部屋に来なくなった。
ある夜、隣の空室から女の話し声が聞こえた。壁越しではなく、ベランダのすぐ外だ。不審に思った彼女は、確認するように小さな物を投げた。音を立てた瞬間、話し声は止まり、代わりに低いうなり声が返ってきた。
「ググゥ」「ググググ」
音は、外からゆっくり近づいてきた。
ガラスに黒いものが映った。髪の毛のようで、けれど束になって動いていた。誰かが首をかしげるように、影が揺れた。
彼女は寝室に逃げ込み、朝まで一睡もしなかった。
翌日、大家に頼んで隣室を開けてもらった。部屋は無人だった。ただ、壁一面に虫の死骸が張り付いていた。大家は苦笑いして「掃除はしたはずなんだが」と言った。彼女は何も言わなかった。
それからも、異変は続いた。
玄関が水浸しになった夜、天井に黒い亀裂が走っていた。便器の蓋は真っ二つに割れていたが、業者は「構造上ありえない」と首を振った。
友人を招いた夜には、和室の音に重なるように、洋室の壁が叩かれた。重いものが、内側からぶつかってくる音だった。
やがて彼女自身も高熱を出した。母親が泊まりに来た夜、深夜に階段を駆け下りる足音と、女の悲鳴が響いた。飛び出そうとした彼女を、母親は無言で引き止めた。
母親には、何も聞こえていなかった。
引越しを決めたのは、大家がぽつりと漏らした一言がきっかけだった。
上の階で亡くなった住人の部屋。畳を剥がした裏に、無数の引っかき傷が残っていたという。壁ではなく、畳の裏側に。
彼女は実家に戻った。
今でも、夜遅くに帰ると、静かな部屋でふと耳を澄ませてしまう癖が残っているという。
あの音が、今もどこかで続いているのではないかと。
――そして、彼女はこう言った。
「気にしなかったから、私は最後までいられたんだと思う」
それが、正しかったのかどうかは、分からない。
(了)