この話を語り継ぐと、決まって空気が重くなる。
私も最初に聞いたときはそうだった。だが不動産会社に勤める知人が酒の席で口にしたときの声音は、まるで他人事のようで、どこか乾いた響きが混じっていた。
彼は高校時代の部活の先輩を頼り、不動産業に身を投じていた。日々の仕事は単調で、客を案内し、契約をまとめる。ただそれだけの繰り返し。しかしある日、若い男が現れて「いわくつきの物件を紹介してほしい」と言い出したのだ。名を巻田といった。
頼りの先輩は慣れた様子で引き受け、半年ほど前に女性が自殺した部屋を案内した。築八年の二階建て、鉄骨の冷たい廊下、薄暗い階段。どこにでもある安アパート。しかしそこで死んだ者がいるとなれば、空気は別物になる。巻田は迷わず契約し、数日後に入居した。
最初の苦情は一週間も経たないうちに届いた。夜中にドンドンと扉を叩く音がする。怒鳴り声も聞こえる。最初は不審者の仕業だろうと笑い飛ばしたが、巻田の声は震えていた。数日後、再び同じ訴え。革靴の足音が近づき、玄関を激しく叩き、「いい加減にしろ」と怒鳴る。霊を信じない彼が蒼白な顔で言葉をつまらせたという。
警察を呼べと助言すると、二週間後、本当にその時が来た。巻田が携帯越しに聞かせてきた音は、確かに耳を打った。コツ……コツ……と規則的に迫る足音。続いて激しい打音と低い怒鳴り声。現場に駆けつけたとき、男が立っていた。目を合わせると、うつむき、逃げるように去った。警察に通報すると、すぐに捕まった。
男は、自殺した女性の元恋人だった。彼女の死を受け入れられず、精神を病み、療養していたという。ここで話は終わるはずだった。不動産の先輩も「幽霊の正体見たり、ですね」と乾いた笑みを漏らした。だが、巻田は部屋の解約を強く望んだ。
数日後、彼から聞いた話は、背筋を冷たくするものだった。あの男の姉が語ったという。男は夜ごと、亡くなった恋人の姿を目撃していた。深夜の路地、交差点の角、駅のホーム……彼女は必ず背を向けて歩き去り、その先に辿り着くのが巻田の住む部屋だったのだ。男は亡霊を追い、行き着いた扉を叩き、怒鳴り散らしていた。
巻田は最後に「彼女の霊がまだそこにいるような気がする」と言い、蒼ざめた顔のまま去った。契約は打ち切られ、その部屋はさらに安く市場に出されているというが、誰一人として入居する者はいない。
私の知人は苦笑混じりに語っていたが、私は笑えなかった。あの部屋のドアを叩いていたのは、果たして彼女を追う男だけだったのだろうか。……巻田の耳に響いたあの「革靴の足音」は、いまも誰かを追い続けているのかもしれない。