これは、数年前、剣道教室の鏡開きに参加したというある若者から聞いた話だ。
その日は寒さの厳しい冬の日で、剣道教室が開催されたのは、西○線の終点にあるH駅の近くだった。稽古に汗を流し、ついた餅を振る舞われ、午後二時には解散。特に問題もなく、帰路についたという。
問題は、その帰り道で起きた。
普段、H駅から自宅最寄りのS駅までは、小一時間ほど電車に揺られる。小学生相手に指導し、稽古で動き回ったせいか、体力を使い果たしていた。電車が発車して間もなく、彼は深い眠りに落ちた。
どれほど眠ったのかは分からない。不意に目が覚めたとき、車内は驚くほど静かで、誰一人乗客の姿がなかった。聞き覚えのないアナウンスが耳に入ると、車両が止まった。窓の外に見えるのは「ひつか駅」と書かれた駅名標。
「こんな駅、あっただろうか?」
興味本位で降り立ったホームには奇妙な空気が満ちていた。周囲には何も見えない。ただ白い。ホームも、空も、地面すらも白一色で塗りつぶされている。唯一黒く浮かび上がるのは「ひつか駅」という文字だけだった。
不安が胸をよぎったが、次第にそれは恐怖に変わっていった。
視界の端で電車が発車する音がした。その瞬間、彼の背筋が凍りついた。
ホームから続く階段はない。駅舎も見当たらない。どこを向いても、出口の気配すらないのだ。そして、誰もいない。
震える膝を抱え、ホームの端に腰を下ろす。「帰れないかもしれない」そんな考えが頭を支配し始めたその時だった。
背後から、妙に訛った声が聞こえた。
「あんちゃんなずした?」
振り向くと、そこには五~六歳ほどの子どもが立っていた。おかっぱ頭に古い着物を身にまとい、性別も分からないが、どこか不気味なまでに整った顔立ちだった。
不意の安堵から、彼は泣きながら事情を話した。訥々と語るうち、子どもはうなずきながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
「ここは、本来、人が来る場所ではない。」
「あんちゃん、むしろ降りて正解だった。あのまま乗ってたら……危なかったな。」
「ここは“死の一歩手前”だ。でも、助かる道がある。」
さらに、子どもは次の駅の存在をほのめかした。「ひつか駅」の次にもう一つ駅があり、そこに行ければ戻れる可能性があるのだという。
「でも、一つだけ代償がいる。」
代償の意味を問う暇もなく、子どもは低い声でこう言い放った。
「あんちゃん、まだ『運』は使ってねぇ。だから帰してやる。でも、次はねぇと思え。」
言葉の意味を飲み込む間もなく、視界がふっと暗転した。
次に気がついたとき、電車はS駅の二つ手前を走っていた。慌てて身体を確認すると、ニット帽が消えていた。あの子どもが言っていた「代償」とは、これのことなのか?
降りた駅での出来事を夢と片づけられるような感覚ではなかった。ただ一つ確かなのは、あの日を境に電車で眠ることだけはやめたということだ。
誰も知らない白い駅の記憶を胸に――。
[出典:78 本当にあった怖い名無し 2012/01/09(月) 12:56:09.38 ID:RaLFMpPb0]