もう四十年も前の話だ。
埋立地にできたばかりの団地に住んでいた。空き地ばかりで、風が吹けば砂が舞い、自転車で同じ道を何周もしているだけで日が暮れた。昼間でも静かで、人の気配より潮の匂いのほうが濃かった。
ある交差点に、突然一軒の平屋が建った。塀も植木もない、むき出しの土の上に、白っぽい四角い家がぽつんと置かれていた。生活の匂いがなく、模型のように見えた。
何度か通るうち、家の前に大きな白い犬が繋がれているのに気づいた。首輪をつけた、人懐っこい犬だった。自転車の音がすると立ち上がり、鎖を鳴らして尻尾を振る。怖さはすぐに薄れ、勝手に撫でるようになった。
ある日、肉屋で買った唐揚げをひとつ、犬に投げた。犬は跳ねるようにそれを受け取り、湿った音を立てて噛んだ。
その瞬間、玄関が開いた。
右端の玄関から、眼鏡をかけた痩せた女が出てきた。年齢はわからない。無表情で、こちらを見ていた。叱るでもなく、声をかけるでもなく、ただ見ていた。
その視線の奥、開いた玄関の中を、私は見た。
玄関のすぐ右側に、部屋があった。
だが、その位置に部屋があるはずがなかった。外から見れば、そこは道路に面している。敷地の形も角度も、何度も自転車で回って覚えていた。右側に奥行きなどない。
それでも、確かに部屋があった。
畳ではない。床は白く、壁も天井も、昼の光を薄く溶かしたような明るさに満ちていた。照明の光ではない。窓も見えないのに、均一な白い光が漂っている。
懐かしいと思った。
行ったことのない場所なのに、帰ってきたような感覚が胸の奥に広がった。足を一歩出せば、自然にあの光の中へ入っていける気がした。
女が小さく息を吸った。
次の瞬間、玄関は乱暴に閉められた。金属音が響き、すべてが途切れた。
手に唐揚げを持ったまま、しばらく動けなかった。鏡かもしれないと考えたが、違う。奥行きがあった。空気の質が、この世界のものではなかった。
数か月後、犬はいなくなった。女も見なくなった。翌年、その家は取り壊された。新築から一年も経っていなかった。理由を知る者はいなかった。
その土地は長く空き地のままだった。
今年の春、久しぶりに訪れると、別の家が建っていた。以前とはまったく違う造りで、車が停まり、洗濯物が揺れていた。
玄関の右側を見た。
当然、そこには何もない。壁があり、その向こうはすぐ道路だ。
それでも、目の奥に、あの白い部屋が浮かぶ。光だけが満ちた、奥行きのある空間。あのとき、女は何を閉めたのか。
あの家を壊したのは、私が見てしまったからではないのか。
考えるほど、地面の感触がわずかに曖昧になる。
今も夢に見る。玄関は開いている。白い犬が光の中に立ち、尻尾を振る。女はいない。ただ、部屋だけがある。
名前を呼ばれている気がする。
あのとき、踏み込まなかった一歩の続きを、いまも待たれているように。
[出典:518 :本当にあった怖い名無し:2020/09/18(金) 20:27:55.47 ID:bBATcL7O0.net]