私がこの話を耳にしたのは、父が死ぬ二年前だった。
もっとも、話の大半は私が生まれるよりも前の出来事で、直接見たわけではない。父の口ぶり、残された古い資料、そして私の想像が混ざっている。だから、どこまでが事実かは分からない。
ただ、これを話し終える頃、あなたの家の戸口に影が立つかもしれない。それだけは覚えておいてほしい。
生まれ故郷の千羽村は、合併によって地図から消えたが、村を象徴する「千羽神楽」の名だけは残っている。
室町時代から五百年以上続く夜神楽で、四つの家が代々受け継いできた。舞は神々を招き、稲の実りや山の寒さを和らげるためのものだった。
その四家のうち、神楽を伝えたのは熊野から来た日野家だと記録にはある。日野草四郎篤矩という男が、幾つかの神楽面を携えて村に入ったとされ、その中の一つが後に「戸口に影」を立たせる原因になる。
神楽面には力があるとされ、特に翁面は他の面を食い破る怪力を持つと古文書に書かれていた。父はその翁面の舞手で、面を着ける時だけは手に汗をかいたという。
長い歴史の中で、四つの舞が失われた時期があった。面も祭文も消え、衣装の挿絵だけが残っていた。
復活のきっかけは大正十一年、高橋家の土蔵から二つの面が発見されたことだった。座長の森本弘明氏は、ある晩、社殿で眠っていると夢に三人の舞手が現れ、それぞれ「山姫の舞」「火荒神の舞」「萩の舞」を授けた。
翌朝、弘明氏はその三舞を現実に蘇らせた。それが村で語り継がれる「三舞復活縁起」である。
しかし、失われた四舞のうち「樵の舞」だけは戻らなかった。面も見つからず、熊野から来た日野草四郎が持参したものだとされていた。
時は流れて昭和四十年。神楽の稽古を始めたばかりの父の耳に、「樵面が見つかった」という知らせが入った。見つかったのは矢萩集落の土谷家。
その家の姑は奥座敷に父たちを案内したが、「中へ入ってはなりません」と言った。暗い座敷の奥、柱に逆さまに掛けられた黒い面があった。よく見ると両目の部分を釘で打たれ、柱に打ち留められている。
姑は言った。
「この座敷に上がった者は必ず目を失う」
土谷家には古い言い伝えがあった。日野家以前、この村に神楽を伝えたのは土谷家で、樵面はその象徴だった。しかし日野家が来てから立場を奪われ、面も演目も持って行かれた。
江戸末期、土谷甚平という男が舞太夫となり樵面を着けた夜、狂ったように村を走り回り、「土も稲も枯れ果てよ」と叫び、自ら目に釘を打って崖から飛び降りたという。
以来、面は逆さに打ち付けられ、村に飢饉と死人をもたらした。これが土谷流神楽の、日野流への復讐だった。
奥座敷の面を外せば呪いが解けるかもしれないが、入れば失明する。盲目の隣人に頼もうという案も出たが、姑は拒んだ。彼が目を失ったのは、かつて面を外そうとして呪われたからだという。
膠着する中、一人の九十を超えた老人が現れた。「人に外せないなら、人ならぬものが外せばよい」
老人は山姫の面を着け、格衣に白布をまとって舞いながら奥座敷へ入り、面に触れた瞬間、釘は崩れ落ちた。
現れたのは、三舞復活の森本弘明その人だった。
こうして樵面は外され、土谷家ゆかりの神社に祭られることとなった。『樵の舞』は村に密かに伝わっており、これで四つの舞が揃った。
森本老人は父に「素面では人として神に向かい、面を着けては神として人に向かう」と教えた。
やがて父は言った。
「樵と山姫は、きっと恋仲だったんだろうな」
だからあの舞で面は解かれたのだ、と。
私は思う。神楽とは、神を饗待し、時に怒りを鎮めるためのものだ。千羽を呪い続けた樵面にとって、あの舞こそが鎮めだったのだろう。
森本老人が死んだ日、多くの人がその家の戸口に影を見た。呪いの影だと言われたが、その死は百年を生きた舞太夫の大往生だった。
(了)