今でも、彼女から聞いたその話を思い出すと、耳の奥に湿ったものが残る。
水でも汗でもない。音の名残だけが、こびりつくように離れない。
彼女と知り合ったのは仕事の現場だった。照明の強い場所に長く立ち続ける職種で、互いに控室の隅で言葉少なに休憩を取る仲だった。彼女はもう表の仕事から離れ、今は化粧もせず、静かな生活をしているという。その変化の理由を、私は深く聞かなかった。代わりに、ある夜、彼女のほうからぽつりと話し始めた。
最初に出てきたのは、彼女の友人の話だった。同じ業界にいた女性で、一人暮らしのマンションに空き巣が入ったという。窓の鍵だけが壊され、室内はほとんど荒らされていなかった。現金も宝飾品も残っていた。警察は首をかしげ、不動産屋は鍵を替えただけで終わった。誰も納得はしていなかったが、それ以上掘り下げられることもなかった。
三か月後、その事件は思わぬ形で蒸し返された。犯人が自ら警察に出頭したのだ。目的は窃盗ではなく、盗聴だったと語った。小さな装置を仕掛け、部屋の音を聞いていたという。最初は住人の生活音だけだった。足音、シャワーの水音、電話の声。
だが、次第に別の音が混じり始めた。赤ん坊の泣き声。女の低い囁き声。夜中、誰もいないはずの時間帯に、同じ調子で繰り返される声。犯人は眠れなくなり、録音を止めようとしたが、耳に残る音が消えなかった。やがて夢の中に、赤ん坊を抱いた女が現れるようになったという。
調べると、前の住人は赤ん坊を連れた母親だった。ある日、家財を残したまま忽然といなくなっていた。事件にも事故にもなっていない。記録上は、ただ退去したことになっている。それ以上の情報は出てこなかった。
彼女の友人は、その話を聞いた夜、部屋を出た。必要なものだけを持ち、知人の家に転がり込んだ。後日、正式に引っ越しをし、その部屋には戻らなかった。
彼女はそこで話を区切り、少し笑ってみせた。ありきたりな怖い話だと言いたげだった。だが、次の話に移るまでの間、言葉が途切れた。
十年以上前の同僚の話だという。新居に移ってすぐ、無言電話と差出人不明の手紙が続いた。不安になって業者を呼び、部屋を調べたところ、寝室と浴室のコンセントから盗聴器が見つかった。設置したのは不動産屋の担当者だった。監視目的で部屋を用意したと、あっさり白状した。
供述書の最後に、奇妙な一文があったという。毎晩一時半頃、「ただいま……帰ったよ」という男の声が録音されていた、と。住人は女一人。夜間に訪ねてくる者もいない。担当者自身も、その声に心当たりはなかった。
同僚は部屋を出た。しばらくして結婚し、子どもにも恵まれた。生活は落ち着いた。だが、夫が仕事から帰り、玄関で「ただいま、帰ったよ」と声をかけるたび、胸の奥がざわつくという。録音で聞かされた声と、どこか似ている気がしてならないらしい。
彼女はそこまで話すと、私の顔を見た。反応をうかがうような視線だった。私は曖昧に相槌を打った。どこまでが事実で、どこからが尾ひれなのか、判断できなかったからだ。
その夜、私は帰宅してからも、彼女の話を反芻していた。声というものは、形がない分、記憶に残りやすい。そう自分に言い聞かせ、眠りについた。
深夜、スマートフォンの通知音で目が覚めた。留守電が一件、入っていた。知らない番号だった。再生ボタンを押すと、数秒の無音のあと、男の声が入っていた。
「ただいま……帰ったよ」
低く、抑えた声だった。感情はない。だが、どこか親しげだった。通話時間は短く、それだけで切れていた。私はしばらく画面を見つめ、再生を止めた。着信履歴を確認したが、その番号はすでに消えていた。
翌日、彼女に連絡を取ろうとして、やめた。話せば現実になる気がしたからだ。偶然だと思うことにした。誰かの悪戯か、番号の間違いだと。
それでも、夜になると耳の奥がむず痒くなる。静かな部屋で、何かが帰りを告げる気配だけが、確かに残っている。
帰ってきたのは、誰なのか。
その問いだけが、今も消えない。
(了)