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瞬きをしない rw+3,848

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俺が小学校高学年だった夏の終わりの話だ。

二学期が始まっても登校してこない女子がいた。映子という。担任から、新しい教科書を届けてほしいと頼まれた。集団登校が同じだったからという理由だったが、本当は様子を見てこいという意味だったのだと思う。

日が落ちたあとの風は少しだけ冷えていた。

映子は目立たない子だった。いじめられていたわけでもない。特別に仲が良かったわけでもない。ただ、そこにいるのが当たり前の存在だった。

その当たり前が、急に消えた。

インターホンを押す。呼び鈴の音が家の奥へ吸い込まれていく。すぐには出てこない。

覗き窓の向こうに、丸い影が現れた。

誰かが、こちらを見ている。

時間の感覚が薄れていく。数秒なのか、もっと長いのか分からない。ただ、見られているという事実だけが残る。

視線から逃れようとして横を見ると、庭に犬が伏せていた。ぐったりと地面に腹をつけている。耳も尾も動かない。呼吸すら感じられない。

けれど目だけが、はっきりと俺を捉えていた。

その目は、瞬きもしなかった。

ようやくドアが開いた。

「待たせちゃってごめんなさい。今お料理してたの」

映子が笑う。

覗き窓の位置と顔の高さが一致していることに気づく。さっきまで見ていたのは、やはり映子だったはずだ。

思っていたより元気そうだった。むしろ、妙に明るい。教科書を渡してすぐ帰るつもりだったが、「せっかくだから上がっていって」と腕を掴まれた。

家に入ると、匂いがした。

他人の家の匂いとは違う。湿った布の奥に、どこか甘いような、腐ったような臭気が混じっている。

玄関正面の階段だけに灯りがついている。ほかは暗い。

「今、私ひとりなの」

映子はそう言った。

二階の部屋に通される。電気はついていない。テレビの画面だけが青白く部屋を照らしている。

その光の端に、影があった。

「よお」

低い声がした。映子の兄だという。

さっき、ひとりだと言わなかったか。

何も言わずにコントローラーを渡される。ゲームが始まる。画面の音だけが部屋を満たす。

背中に視線を感じる。

横を見ると、兄がこちらを見ている。映子も画面ではなく、俺を見ている。

二人とも、瞬きをしない。

「喉渇いたろ」

兄が立ち上がる。足音がやけに重い。戻ってきて、瓶と菓子を置く。

口をつけた瞬間、温度に違和感を覚えた。冷たいはずの炭酸が、生ぬるい。

味が、記憶と少し違う。

顔を上げると、二人が同時に俺を見ていた。

「どう?」

映子が訊く。

その声のあと、階段のほうから短い笑い声が聞こえた。すぐに途切れる。途中で切り取られたような笑い方だった。

ゲームをやめる。

「トイレ借りる」

そう言って部屋を出る。階段の灯りは点いたままだ。誰もいない。

けれど、きしむ音がする。二階の奥で、床が鳴る。

一階へ下りる。玄関は暗い。壁のスイッチを押す。

灯りがついた瞬間、視界の端に何かがあった。

リビングの椅子に、女が座っている。

映子の母親だと思う。顔は半分しか見えないが、口元だけがはっきり分かる。

笑っている。

床には瓶が並んでいた。規則正しく、隙間なく。どれも同じ形。

中身までは見なかった。

鍵の音がした。

振り返ると、玄関のドアノブがわずかに動く。内側から、ゆっくりと回る。

何も考えずに靴を掴み、鍵を引き抜いて外へ出た。

犬は吠えなかった。

ただ、首だけをこちらに向けていた。

走りながら振り返る。二階の窓に、二つの影が並んでいる。テレビの光に逆光になった顔が、こちらを見ている。

その視線は、距離があってもはっきりと分かった。

翌日、担任には「元気そうだった」とだけ伝えた。

映子は、それきり学校に戻らなかった。

あの家の前を通るたび、覗き窓が気になる。

丸いガラスの向こうに、誰かが立っているような気がする。

犬は、今も庭にいる。

動かないまま、目だけで通り過ぎる人間を追っている。

(了)

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