俺が小学校高学年だった夏の終わりの話だ。
二学期が始まっても登校してこない女子がいた。映子という。担任から、新しい教科書を届けてほしいと頼まれた。集団登校が同じだったからという理由だったが、本当は様子を見てこいという意味だったのだと思う。
日が落ちたあとの風は少しだけ冷えていた。
映子は目立たない子だった。いじめられていたわけでもない。特別に仲が良かったわけでもない。ただ、そこにいるのが当たり前の存在だった。
その当たり前が、急に消えた。
インターホンを押す。呼び鈴の音が家の奥へ吸い込まれていく。すぐには出てこない。
覗き窓の向こうに、丸い影が現れた。
誰かが、こちらを見ている。
時間の感覚が薄れていく。数秒なのか、もっと長いのか分からない。ただ、見られているという事実だけが残る。
視線から逃れようとして横を見ると、庭に犬が伏せていた。ぐったりと地面に腹をつけている。耳も尾も動かない。呼吸すら感じられない。
けれど目だけが、はっきりと俺を捉えていた。
その目は、瞬きもしなかった。
ようやくドアが開いた。
「待たせちゃってごめんなさい。今お料理してたの」
映子が笑う。
覗き窓の位置と顔の高さが一致していることに気づく。さっきまで見ていたのは、やはり映子だったはずだ。
思っていたより元気そうだった。むしろ、妙に明るい。教科書を渡してすぐ帰るつもりだったが、「せっかくだから上がっていって」と腕を掴まれた。
家に入ると、匂いがした。
他人の家の匂いとは違う。湿った布の奥に、どこか甘いような、腐ったような臭気が混じっている。
玄関正面の階段だけに灯りがついている。ほかは暗い。
「今、私ひとりなの」
映子はそう言った。
二階の部屋に通される。電気はついていない。テレビの画面だけが青白く部屋を照らしている。
その光の端に、影があった。
「よお」
低い声がした。映子の兄だという。
さっき、ひとりだと言わなかったか。
何も言わずにコントローラーを渡される。ゲームが始まる。画面の音だけが部屋を満たす。
背中に視線を感じる。
横を見ると、兄がこちらを見ている。映子も画面ではなく、俺を見ている。
二人とも、瞬きをしない。
「喉渇いたろ」
兄が立ち上がる。足音がやけに重い。戻ってきて、瓶と菓子を置く。
口をつけた瞬間、温度に違和感を覚えた。冷たいはずの炭酸が、生ぬるい。
味が、記憶と少し違う。
顔を上げると、二人が同時に俺を見ていた。
「どう?」
映子が訊く。
その声のあと、階段のほうから短い笑い声が聞こえた。すぐに途切れる。途中で切り取られたような笑い方だった。
ゲームをやめる。
「トイレ借りる」
そう言って部屋を出る。階段の灯りは点いたままだ。誰もいない。
けれど、きしむ音がする。二階の奥で、床が鳴る。
一階へ下りる。玄関は暗い。壁のスイッチを押す。
灯りがついた瞬間、視界の端に何かがあった。
リビングの椅子に、女が座っている。
映子の母親だと思う。顔は半分しか見えないが、口元だけがはっきり分かる。
笑っている。
床には瓶が並んでいた。規則正しく、隙間なく。どれも同じ形。
中身までは見なかった。
鍵の音がした。
振り返ると、玄関のドアノブがわずかに動く。内側から、ゆっくりと回る。
何も考えずに靴を掴み、鍵を引き抜いて外へ出た。
犬は吠えなかった。
ただ、首だけをこちらに向けていた。
走りながら振り返る。二階の窓に、二つの影が並んでいる。テレビの光に逆光になった顔が、こちらを見ている。
その視線は、距離があってもはっきりと分かった。
翌日、担任には「元気そうだった」とだけ伝えた。
映子は、それきり学校に戻らなかった。
あの家の前を通るたび、覗き窓が気になる。
丸いガラスの向こうに、誰かが立っているような気がする。
犬は、今も庭にいる。
動かないまま、目だけで通り過ぎる人間を追っている。
(了)