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中編 ミステリー n+2025

沈黙の方程式【短編ミステリー】n+

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第一章:名もなき死

雨が窓を叩いていた。
東京の西端にある古びたアパート。その一室で、刑事・榊原哲也はカーテンの隙間から煙る街を見下ろしていた。片手には一枚の写真。柔らかな笑顔を浮かべる男が写っている。いかにも善良そうな会社員──それが、今はもう冷たい遺体として警察の記録に刻まれている。

「自殺か他殺か、それが問題だ…などと口にすれば、ハムレットに叱られるな」

呟きながら、榊原は写真をデスクに置いた。被害者は佐藤誠、45歳。大手メーカーの中間管理職。三日前、首を吊った姿で自宅のリビングに見つかった。家族の第一発見。現場の状況から、所轄は即座に自殺と判断した。
だが、榊原にはその“完璧すぎる整合性”が、どうにも気に入らなかった。

「何かが隠されてる」

事件ファイルを開き直す。佐藤は、社内評価は高く、家庭も表面上は円満。妻と高校生の息子あり。だが、最近は帰宅が遅く、同僚との関係にも不穏な証言が残されていた。

そのとき、ポケットの携帯が鳴った。画面には「田中美咲」。新米刑事で、榊原の相棒だ。

「榊原さん、会社関係の聴取が終わりました。ちょっと気になる話が──」
「オフィスで聞こう。向かう」

レインコートを羽織り、榊原は雨の街へ出た。

彼には、他人の“本音”を読み解く力があった。微細な表情の揺れ、声のトーンの変化、沈黙の間。カーネギーの『人を動かす』を暗記でもしているかのように、人の虚構と本性を見抜く。誰かの話を聞けば、その人がどこで自分を偽っているかが手に取るようにわかった。

警視庁の捜査一課に戻ると、田中が待っていた。明るく情熱的な彼女は、榊原の“技術”を目の前で観察しながら吸収している。

「佐藤さんの上司、同僚、部下、計8名に聞きました。全員が“いい人だった”と口を揃えてます。ただ、ある男との関係に変化があったようです」

「誰だ?」
「鈴木健太郎。同じ部署の同期入社。もともと親友だったみたいですが、一ヶ月ほど前を境に急に口もきかなくなったと」

榊原の目が鋭く細まった。

「その頃、佐藤の行動も変化してるな。何かあったかもしれない」
「もうひとつ。佐藤さんの妻から連絡がありました。“自殺なんかじゃない”と断言してます」

「根拠は?」
「亡くなる前夜、“すべてを解決する”って言っていたそうです。“もう逃げない、明日話す”と」

榊原は立ち上がる。「先に奥さんに会おう。死者の言葉には生者の真実が隠れている」

佐藤家は、郊外の整然とした住宅街にあった。出迎えた妻・美香は、顔に疲労と不安を貼り付けていた。

「警察の方ですね…どうぞ」

居間に通されると、遺影がテーブルの中央に置かれていた。榊原は正面から向き合い、深く一礼した。

「ご主人について、いくつかお尋ねします。最近、何か変わったことはありましたか?」

「一ヶ月ほど前から、帰りが遅くなりました。口数も減って…何かを抱えているようでした。でも、聞いても“何でもない”って」

「“鈴木”という方の名前、最近出ましたか?」

「いえ…それも奇妙なんです。以前は“鈴木と飲んだ”“鈴木が言ってたんだけど”とよく話していたのに、ぱたりと…」

最後に交わした会話を尋ねると、美香は震える声で言った。

「“明日、すべてを解決する”って。それだけを言って、出ていったんです。だから、自殺なんて信じられない…」

そのとき、彼女が思い出したように立ち上がり、一冊の本を持ってきた。

「最近、夫がよく読んでいたものです。カーネギーの…『人を動かす』という本。ページの隅に、たくさん書き込みがあって──」

榊原は、表紙を見てから静かにうなずいた。「拝見してもよろしいですか?」

「どうぞ。何かの手がかりになるなら」

車に戻った榊原は、助手席でページを繰った。メモが赤ペンでびっしりと書かれている。「相手の自尊心を傷つけない」「議論に勝とうとするな」──どれも、佐藤の性格と矛盾しない。

「佐藤は、誰かと対立するのではなく、解決しようとしていた」

「相手は、鈴木…ですね?」

榊原は頷いた。「会いに行こう。鍵は彼が握っている」

鈴木健太郎は、高層ビルの18階で出迎えた。すでに榊原たちの訪問を察していたらしく、開口一番、言った。

「佐藤のことで来たんですよね」

目の下のクマ、かすかに震える指。何かを隠そうとしているのが、表情の端に現れていた。

「最後に佐藤さんと会ったのは?」

「前日、です。些細な業務報告で来ただけです。あいつが…まさか…」

榊原はじっと目を見据えた。

「同期で、親友だったと聞いています。だが関係は急速に冷えた。その原因を教えていただけますか?」

鈴木の唇が、かすかに震えた。

「──私が…あいつのアイデアを盗んだんです」

部屋に重い沈黙が流れる。鈴木はうつむき、続けた。

「会議で、自分の提案として発表しました。部長に言われたんです。“佐藤じゃ通らない。君の名前で出せ”って。罪悪感はありました。でも昇進がかかっていて──」

「佐藤は何と言った?」

「“君のやったことは許せない”って。それだけ。でも、怒鳴らなかった。あいつらしい」

「そして、前日、彼が“真実を明かす”と?」

鈴木は、グラスの水を一口飲んだ。

「部長に電話しました。佐藤が真実を話すと伝えると、“俺が対処する”とだけ…」

榊原は即座に立ち上がった。「部長の名前は?」

「山田昭一。今日、休暇を取ってます。自宅にいるかと」

田中が唾を飲み込んだ。

「まさか──上司が…?」

「人間は、恐怖と虚栄で動く。理性よりも強い感情が、時に命を奪う。行こう」

榊原は、濡れた窓の外に目を向けた。
雨は、まだ止みそうにない。

第二章:真実への糸

山田昭一。佐藤誠の上司にして、プロジェクトの実質的な責任者。
その男が今、榊原たちの捜査線上に浮かび上がっている。

都心の高級マンション、その最上階。エントランスは無機質なまでに静かだった。インターホンを押すも応答はない。

「部屋にいる可能性が高い」
榊原は管理人に身分証を示し、マスターキーの使用許可を求めた。

部屋の中は整然としていた。
高級志向のインテリア。仕事に疲れた男の空虚さを、無機質な光沢が隠しきれていない。

「ウイスキーが半分。グラスはまだぬるい。つい最近までいたな」田中が言った。

書斎を調べると、佐藤のプロジェクト資料が雑然と積まれていた。奇妙なことに、その中の一部には佐藤の名前が赤線で消され、代わりに「鈴木健太郎」と書かれていた。

「証拠隠滅の痕跡だ」榊原は冷静に言った。

さらに、ゴミ箱から破り捨てられた手紙の切れ端が見つかった。田中が丁寧に断片を並べる。

──山田部長へ
私は真実を明らかにするつもりです。あなたを責める意図はありません──
──私たちの部署と会社のためです──
──明日9時、オフィスでお待ちしています。佐藤誠

「対立ではなく、対話を望んでいた。佐藤らしいな」榊原は呟いた。
「“人を動かす”の通りだ。『批判せず、相手に責任を取らせるのではなく共感を』…」

そのとき、玄関の扉が開いた。
男の足音。榊原と田中がリビングに戻ると、スーツ姿の中年男が立っていた。

「山田昭一さんですね。警視庁の榊原です」

山田は一瞬だけ戸惑いの表情を見せたが、すぐに眉をひそめた。

「佐藤の件なら、自殺だったはずだ。私は関係ない」

榊原は、ゆっくりと手紙の断片を差し出した。

「これは佐藤さんの書いたものです。対話を求めていた。あなたと、最後に」

沈黙。
山田は口を開きかけ、だが言葉を飲み込んだ。その仕草に、榊原は“答え”を見た。

「あなたは彼に会っている。死亡推定時刻、あなたのオフィスに佐藤はいた。ビルの防犯カメラもそれを裏づけています」

ソファに腰を落とし、山田は長い息を吐いた。

「──話そう」

「佐藤は、9時ちょうどにオフィスに来た」
山田は、声を絞り出すように語りはじめた。

「“真実を話したい”と言っていた。私と鈴木の行動について、部長会議で話すと。私が命じて、彼のアイデアを盗用させたことを…」

「なぜ、そんなことを?」田中が問う。

「私には時間がなかった。あと一年で役員昇進が決まるかどうかの瀬戸際だった。佐藤の案では通らない。人望も影響力も足りない。だが、アイデアは素晴らしかった。私の“経歴”に使う価値があった」

山田は口を引き結んだまま、続けた。

「説得した。“君のキャリアにも傷がつくぞ”と。だが、佐藤は『もう逃げない』と答えた。…それで、私は…」

その声は、もはや自責と混乱の塊だった。

「…私は彼を掴んだ。突き飛ばした。それが…首に腕がかかり…」

田中が口を開こうとした瞬間、榊原が軽く手を上げて制した。

「──気がついたら、動かなくなっていた」

「そうだ…」山田はうなだれた。「自分でも信じられなかった。ただ、…終わらせないといけなかった。彼を自宅に運び、自殺に見せかけた」

榊原は、静かに告げた。

「山田昭一。あなたを、佐藤誠殺害の容疑で逮捕します」

抵抗はなかった。手錠の金属音が、部屋に重く響いた。

佐藤家の玄関先。雨がやみ、雲の切れ間から夕暮れの光が街を照らしていた。

榊原は、美香とその息子・健太に、真実を伝えた。

「──自殺ではありませんでした。佐藤さんは、他者を責めることなく、正しい形で真実を明かそうとしていました」

美香は静かに涙をこぼした。健太が口を開く。

「父は…『誰かを責めるのではなく、自分がどうあるべきかを考えろ』って、よく言ってました」

榊原はカーネギーの本を差し出した。「この中に、佐藤さんの信念が残されています。…人を動かす力というのは、時に自分を犠牲にしてでも相手を信じることなのかもしれません」

帰りの車の中。

田中が問う。「佐藤さんの原則は、結局、報われなかったのでは?」

榊原はフロントガラスの先に目をやりながら答えた。

「報いなんてものは、人が決める評価だ。佐藤は、最後まで“どう生きるか”を選んだ。原則が意味を持つのは、成功したときだけじゃない」

「失敗しても、意味がある?」

「むしろ、極限まで信じたとき、その原則の真価が見える」

ワイパーが静かにガラスを拭っていた。

田中は小さく頷いた。「次の事件では、佐藤さんのように、相手の立場に立って考えてみます」

榊原は口元だけで笑った。

「それができるなら、君はすでに一流の刑事だ」

車は夜の東京を抜け、警視庁へと戻っていった。

第三章:破られた原則

山田の逮捕は、社内に静かな衝撃をもたらした。
だが、想定されていた“終わり”は訪れなかった。

数日後、榊原のもとに警視庁鑑識課から一本の報告が届いた。
山田の自供と現場状況に、決定的な矛盾があるという。

「佐藤誠の遺体には、首の圧迫痕とは別に、背面に打撲と擦過傷があった。死因は窒息ではなく、頭部強打による脳挫傷の可能性が高い」

榊原は手元の資料を見つめたまま、誰にも聞こえぬ声で呟いた。
「殺したのは山田ではない…?」

山田の再取り調べが行われた。榊原は自白の“核心”を逆照射するように問いかけた。

「山田さん、あなたは佐藤さんの首を絞めたと言いましたね。ですが、死因は脳挫傷でした。首を絞める以前に、佐藤さんは倒れていた可能性が高い」

山田は沈黙した。だが、長い沈黙のあと、かすかに首を振った。

「…私が突き飛ばしたとき、机の角に後頭部を打ったかもしれない。私は…覚えていない…」

「あなたの行為が結果として死を招いたとしても、意図的な殺意は立証できない。ですが──彼は、“首を吊られて”発見された。そこまでやったのは、あなただけではないですね」

山田の目が揺れた。その反応は、明確な“否定の欠如”だった。

「もうひとり、いたんです」

そう口を開いたのは、佐藤の妻・美香だった。

榊原と田中が訪ねると、彼女はまっすぐ目を見てこう言った。

「私が…真実を知りたいとずっと願っていたのに、気づいてしまったんです。…本当は、私も気づいていた」

「何に、ですか?」榊原が慎重に問いかける。

「健太です。息子が、父の死の朝、何かを隠していたんです。ランドセルを持たずに出かけたと…」

田中と視線を交わし、榊原は頷いた。「お話を伺えますか?」

高校一年の佐藤健太は、驚くほど冷静だった。父の死後、泣くことは一度もなかったという。

「父のことは尊敬してました。だけど、ある日から、彼の“正しさ”が、まるで呪いのように見えたんです」

「何があった?」榊原が促す。

「部屋に、父と山田部長の会話を録音したICレコーダーがありました。父はすべて証拠として記録してた。だけど、それを僕に見せながらこう言ったんです──“相手の立場に立って考えよう。彼にも事情がある”って」

健太の声がわずかに震える。

「僕には、それが信じられなかった。父は何をされても、自分からは決して“怒らなかった”。でも、それじゃ何も変わらない。正しさで人は動かない。現実は、もっと…汚い」

榊原は静かに尋ねた。「事件当日、君は父と山田部長のやりとりを見たのか?」

「はい。父は帰ってきたあと、ぐったりしていて…少し血もついてた。僕は驚いて、何があったのか問い詰めた。でも父は言ったんです、“これでいい。明日、すべてを話す”と」

「それで、どうした?」

「その夜、ICレコーダーを持って部長のオフィスに行きました。僕は、脅しに行ったんです。“全部バラすぞ”って。でも──」

健太の目に、かすかに涙が浮かんだ。

「そこに、鈴木さんが来たんです。…そして、揉み合いになった。ICレコーダーを取り返そうとして──そのとき、父が現れました。僕を止めようとして…もみ合いの中で、倒れて──頭を打ったんです」

事件の構図が浮かび上がってきた。
「山田の脅迫」→「佐藤の帰宅」→「息子の単独行動」→「鈴木との対峙」→「事故」→「山田と鈴木の協力による偽装」

すべての“善意”が、すべての“沈黙”によって、破綻に向かって進んでいた。

榊原は、健太に言った。

「君のしたことは、正義感から来ていた。だが、それが新たな沈黙を生んでしまった」

「父のようには…なれなかった」健太はつぶやいた。

榊原は否定も肯定もせず、ただこう言った。

「人を動かす原則は万能じゃない。だが、対立のたびに“怒り”を選んでいたら、世界はとっくに壊れていたかもしれない」

健太はゆっくりとうなずいた。

「──僕は、自分の中の“怒り”に勝てなかった。でも、父は違った。あの人は、最後まで“対話”を信じていた」

山田と鈴木は、偽装と死体遺棄の容疑で再逮捕された。
健太は、未成年ゆえ刑事責任は問われなかったが、すべての事実を自ら記した陳述書が法廷に提出された。

佐藤誠の死は、誰かひとりの“悪意”によるものではなかった。
正しさの不完全さ、沈黙の連鎖、そして「原則」が破られたときの、世界の脆さ。

榊原は捜査報告書の末尾に、こう記した。

「人を動かす」とは、相手を操作することではない。
“信じる”という、愚直な選択に身を委ねることだ。
それは時に敗北を招き、死をもたらす。
だが、それでもなお残された者は、その“信じた姿勢”を受け継ぐほかない。

雨は止んでいた。
空にわずかに光が差していた。

第四章:声なき者たち

佐藤誠の死に関与した全員の供述が出揃った。真相は、理想と恐怖、沈黙と誤解が絡み合った末の、連鎖事故とも言えるものだった。

だが、事件はまだ終わっていなかった。

その翌朝、警視庁の捜査本部に一本の封筒が届いた。差出人不明。中には、A4の紙が一枚。そこにはこう記されていた。

「佐藤誠の件、これは“始まり”に過ぎません。彼の死は、ある“計画”にとって邪魔だったのです。まだ他にも、沈黙させられた者がいます」

「これは単なる悪戯ではない」

榊原は言い切った。筆跡、紙質、印刷機のインクのにじみ。そのどれもが計算されていた。「不気味に整っている」とでも言うべきか。

佐藤の死が単独の不幸な事件ではなく、何かより大きな構造の“歯車”であった可能性。

「誰が、この沈黙を求めているのか」

調査は再び“会社”に向けられた。佐藤が働いていた部署には、もう一人、過去に「精神的な不調」で退職した人物がいた──財務課の三浦達也。

「1年前、突然休職願を出し、そのまま退職した。理由は“不安障害”とされていたが、社内では腫れ物のように扱われていたらしい」

三浦の自宅は、埼玉の住宅街。静かな午後、インターホンを押すと、出てきたのは痩せ細った中年男だった。表情は疲れ果て、眼差しはどこか“他者との関係”を失っている。

「警察の方が…なぜ今さら…?」

「佐藤誠さんの件です。あなたが退職する前、彼と何か話をされたことはありませんか?」

三浦は玄関に寄りかかるようにして、言った。

「彼は…僕の“最後の味方”だった」

三浦の話は、事件の影をさらに濃くした。

「僕は、不正に気づいたんです。会社の財務資料におかしな“操作”があった。数千万規模の帳簿上の移動。明らかに意図的だった」

「誰がやったんですか?」

「わからなかった。でも、佐藤さんにだけは相談できた。彼は一週間かけて資料を精査して、“これは君一人では危険だ”と言って…そのあと、山田部長と話すと言ってました」

その後、佐藤は何も言わなくなった。三浦も、数日後に異様なプレッシャーを感じ、会社を辞めた。

「佐藤さんは、“自分が受け止める”と言った。僕の代わりに。だけど、何かが起きた。あの人は…沈黙を強いられたんです」

榊原は静かに頷いた。佐藤は単に“人間関係”の中で死んだのではない。構造的な“圧力”──隠蔽と恐怖、そのバランスの中で、“計画”を止めようとした。

数日後、佐藤が生前に使用していた私物のノートパソコンが解析された。そこには、暗号化されたPDFファイルが一つ残されていた。

田中が解読に成功し、開かれたファイルの中身は、明確なタイトルを持っていた。

「内部統制報告書(非公開案)」

中には、特定のプロジェクト資金の異常な移動と、匿名の幹部による“主導的関与”が示唆されていた。山田の名前はそこにはなかった。代わりに──

「これは……会社の“さらに上”の層だ」

田中が息を飲む。

榊原は、ファイルをそっと閉じた。

「佐藤は、自分の死が“終わり”であってはならないと考えた。だから証拠を残した。沈黙に殺される者が、自分一人で済むように」

だがその願いは、封筒の一通によって破られた。
“声なき者たち”は、まだ存在する。

「闘うべき相手は、“構造”そのものかもしれない」榊原は呟いた。

真実は、語られるべきなのか。
それとも、守られるべきなのか。

佐藤誠の“正しさ”は、再び問われはじめていた。

榊原は、ゆっくりとデスクの上のカーネギーの本を閉じた。

原則は、時に沈黙を打ち破る武器となり、時にその静けさを守る盾ともなる。

だが、いずれにせよ──
声なき者たちの存在に、耳を澄ますことからしか、始まりはしないのだ。

第五章:密室の会議

告発文が届いてから一週間。
警視庁上層部と企業側の法務部門の間で、水面下の緊張が高まっていた。
佐藤誠の死が、ひとつの“企業スキャンダル”にとどまらず、「組織ぐるみの隠蔽構造」を含んでいる可能性が濃厚となったためだ。

だが、それが本当に「捜査可能」な領域なのか。
組織の論理と真実の間に、榊原は立たされていた。

警視庁捜査一課の会議室。
普段は落ち着いた声で知られる上司・西園係長が、珍しく語気を強めた。

「これ以上“上”を嗅ぎ回るなら、命令違反だぞ。君はすでに山田と鈴木を立件した。それ以上の追及は、組織を敵に回すことになる」

「つまり、“これ以上は調べるな”という命令ですか?」榊原は真正面から問い返した。

「そうだ」西園は言った。「これは“政治”だ。刑事の正義じゃ解決できない領域なんだ」

その言葉は、榊原にとって“犯罪の正当化”に等しかった。
だが、彼は声を荒げなかった。ただ静かに、言葉を置いた。

「私には、ひとつだけ確かなことがあります。佐藤誠は、黙ることを選ばなかった。だから私は、聞き続けるしかない」

その夜、田中とともに車で帰路についた榊原は、助手席の彼女にふと訊ねた。

「なぜ刑事になった?」

「家族が詐欺で人生を壊されたからです」田中は即答した。「でも、当時の警察は“事件性なし”で処理しました。証拠が足りなかったから──でも、本当は、面倒なだけだった」

「それでも警察に入ったんだな」

「同じ言葉を、もう誰にも言わせたくなかった」

しばし沈黙。ワイパーが雨を払い、赤信号に照らされる。

「この事件、私たちだけで追えますか?」

「追えない」榊原ははっきり言った。「だが、止めるのも私たちだ」

翌日、榊原は一通の封書を持って警視庁の記者クラブへ向かった。
内部告発ではない。だが、匿名の情報提供という形で、“佐藤誠が遺した内部統制報告書の存在”をメディアに開示した。

反応は速かった。1社、2社…数時間のうちに、主要紙の経済記者たちが動き出した。

そして、夕方。
テレビのニュース速報に、企業名がはっきりと表示された。

「アクシードテック社、帳簿改ざん疑惑。元社員の死と関係か」

その夜。
都内某所の会議室に、6人のスーツ姿の男たちが集まっていた。

彼らの名は、どの報道にも出てこない。
だが、全員が「佐藤誠の遺した報告書」の中で、仄めかされていた人物だった。

「…これは想定外だな」
「内部から漏れたか?」
「佐藤の件は処理済みだったはずだ」

男たちの会話は、“対策”ではなく、“沈黙の回復”について向いていた。
その中のひとり──額に皺を寄せた初老の男が言った。

「もう一度、沈黙させる必要がある。我々の“原則”を破る者が出てきた」

会議は密室のまま終わり、誰もその存在を記録しなかった。

一方で、榊原はひとりの人物を訪ねていた。
名前は伏せる。だが彼は、社内で20年以上経理畑を歩いてきた“ゴースト”のような男だった。どの役員にも属さず、誰にも覚えられず、ただ数値と数字の裏に潜っていた。

「佐藤誠のことは、覚えていますか?」

「忘れたことがない」男は言った。「あの人は、数字の奥に“人”がいることを、いつも言ってました。誰の提案でもなく、誰の指示でもない。それでも、不正は起きてしまう」

「それが“構造”というやつですか?」

「違う」男はわずかに笑った。「それは“集合的沈黙”という病です。誰かが何かを知っている。だが誰も語らない。誰もが少しだけ罪を感じ、少しだけ得をして、結果として、声が消える」

榊原はメモ帳を閉じた。

「その沈黙を、破る方法は?」

「ひとつしかありません。誰かが、“もう黙らない”と決めることです。たった一人が」

その夜、榊原は署に戻り、机の上にノートを開いた。

“声なき者たち”を動かすには、原則では足りない。
感情でも、正義でも足りない。
必要なのは、“一人であっても語り続ける者の覚悟”だ。

佐藤誠は、その覚悟をもって死んだ。

次は、自分の番だ──
榊原は、深く息を吸った。

第六章:数字の亡霊

データは嘘をつかない。
──と、思いたい人間は多い。だが榊原は知っている。数字ほど、正確に嘘をつけるものはない。

それは、見えない手によって“意図”を付与されて初めて現れる幽霊──数字の亡霊だ。

榊原のデスクの上には、3年分の財務記録、社内報告書、監査報告、決算書のコピーが積まれていた。
モニターには、かつて佐藤誠がまとめようとしていた“内部統制報告書”の断片データが並んでいる。

そのすべてに、共通して記されたプロジェクト名──「NEX-C」。

これは、アクシードテックが海外に展開予定だった次世代通信基盤の開発事業。その規模は数十億、名目上は完全にクリーンな資金運用で、政府からも一部補助金が出ている。

「だが金が動いている。帳簿上の“分散”が、異様に滑らかすぎる」

榊原は、元経理担当のゴーストが口にしていた言葉を思い出していた。

「不正は、バラバラには現れない。あらかじめ“つながるように”仕組まれている」

田中は2リットルのペットボトルを抱えて戻ってきた。

「榊原さん、今日でコーヒー3杯目ですよ。胃に穴あきますって」

「穴があいてもいいが、穴のあいた帳簿は見過ごせない」

「おおう…うまいこと言いましたね」
そう言いつつ、田中は書類を一枚抜き取った。

「これ、見てください。NEX-Cの開発投資の予算ですが、三か月ごとに“費目変更”されてます。“設備投資”→“外部コンサル料”→“研究協力費”。でも、使われた実態がどれも確認できない」

「ダミー会社だな」

榊原はその名目の一つ、“グロースリンク・コンサルティング”に目を止めた。

検索すると、都内登記。だが事務所の実態はレンタルオフィス。代表名義の人物は70歳の個人名義──しかも同名の人物は4年前に死亡していた。

「死人の名義で作られた法人──やってることが昭和だな」

「それを見抜けなかった会計監査もグルですね」

榊原の目が静かに細まる。

「いや。会計監査は、たぶん“見ないようにしてる”。つまり──数字で沈黙してる」

翌朝、榊原と田中は“グロースリンク”の登録住所を訪れた。
表札も何もない、オフィスビルの3階。内装業者が借りるような簡易区画が並ぶ一角。だが、部屋の中には、意外なものがあった。

「パーティションの裏、サーバーがある」

それは、想像以上にしっかりと稼働していた“匿名データ保管サーバー”だった。IDカード式のアクセスログも残っていた。

「この会社、データの“洗浄”と送信だけに使われてる。資金と名義の中継地だ」

榊原が証拠保全を申請しようとしたそのとき──背後から、控えめにノック音が響いた。

「すみません、こちら“森田経理”という方のお部屋でしょうか?」

スーツ姿の中年女性。近くの事務所に勤務しており、“たまにこの部屋に入る男を見た”という。

「30代半ばくらい。細身で、メガネをかけてて…あ、名刺を交換したことがあります。“沢村”って名前でした」

榊原と田中は顔を見合わせた。

沢村。
佐藤誠が亡くなる前、最後に送信したメールのCC欄に、その名があった。件名はただひとつ──「すべてを正すために」。

調査の過程で、榊原は“沢村慶一”という人物の履歴に辿りついた。
彼は、かつて佐藤と同じ部署に所属していたが、5年前に“海外子会社への転属”という形で姿を消していた。
しかし現在、その海外子会社も実質的に存在していない。

「消されたんじゃない。“外された”んだ。組織の外に」

沢村は、“声を上げかけた者”として、一度は沈黙させられた。
だが──いま、再び動いている可能性がある。

「榊原さん、この事件…もう企業不正じゃないかもしれません」

「政治、メディア、司法、金融。全部が薄く関わってる。たった一つの“通し番号”でつながってる」

「通し番号?」

榊原は、NEX-Cの財務データに記されていた一行を指差した。

コード:LX-44721/認可処理済(総務審議室)

「これは──“国家予算番号”だ」

榊原は、深く息を吐いた。
真実を追うほど、世界は無言で巨大になっていく。

「だが、この亡霊は見た。消えない限り、名前をつけねばならない」

その夜、榊原はノートに一行記した。

“LX-44721──声なき数字に、意志が宿る。”

亡霊を狩る者の覚悟が、また一歩、形を成し始めていた。

第七章:眠らぬ予算

LX-44721。
その通し番号は、総務省の審議資料にも記されていた。
本来なら公共事業向けの技術開発支援枠であり、官民連携モデルの象徴とされている。

「この番号に紐づいて、消えた金がある」

榊原は声に出して確かめた。データ上は明確な“痕跡”がある。だが、それを“証拠”と呼ぶには、あまりに整いすぎていた。

「記録は完全だが、誰も責任者として名を残していない。これは“無署名の命令”だ」

それはまるで、機械のように眠らず稼働し続ける予算の亡霊。
いや、むしろ──眠ることを許されない金。

「榊原さん、これ」

田中が差し出したのは、総務省の予算執行会議の議事録。
その中で、NEX-Cに関連する開発費の一部が「国際技術交流プロジェクト」として申請されている。

「この名目、聞いたことないな…」
「調べましたけど、存在しません。外務省にも、経産省にも」

「架空の名目か。いや──“隠すための名前”だな」

議事録にはさらに、関係者として“識者ヒアリング”を行った人物の記録があった。

──元通産省審議官・柿崎清隆

榊原は机から顔を上げた。

「この名前、どこかで…」

田中がデータベースを検索する。
数秒後、彼女の手が止まった。

「いました。佐藤さんが作成した内部報告書の末尾、“今後の検証対象”に記されてます。『柿崎との接触を要確認』と」

柿崎清隆。
一度政界にも進出したが、一期で退任。その後は政府系研究機関の“非常勤理事”として名前だけが残っていた。
だが彼の足跡を追うと、驚くべき事実が浮かび上がる。

彼は“眠らぬ予算”の起点に複数関与していた。

・再生可能エネルギー推進事業(→一部不透明支出)
・国際AI開発枠(→中抜き疑惑)
・今回のNEX-C(→複数のペーパーカンパニーと接続)

「彼は、予算の“名付け親”だったんだな」

榊原は言った。「どのプロジェクトも、“志”だけが立派で、実態は霧」

「そして志を利用した者が、何も語らず利益だけを得てる」

柿崎への接触は難航した。彼は現在、長野県の山奥にある別荘に“療養”という名目で滞在しており、訪問には省庁側の許可が必要という不可解な制約があった。

だが榊原は動いた。
あくまで「元捜査対象に関する情報提供依頼」として、非公式に訪問するルートを確保した。

週末。榊原と田中は、車で山道を登った。
GPSが効かなくなった頃、森の中に忽然と現れた鉄製ゲートと私有地の標識。
そこに立っていたのは、白髪の老人──柿崎本人だった。

「わざわざ、こんな場所まで何しに?」

「佐藤誠という男を、ご存知ですか?」

柿崎は軽く顎を引いた。「名前くらいは」

「彼は“あなたの名を報告書に記したまま死にました”」

その言葉に、老人の表情がかすかに動いた。

「それがどうした?」

「あなたは、眠らぬ予算を動かしていた。自分では直接手を汚さず、名目を与え、道筋を作った。“予算の形式を正当化”し、“中身を空洞化”させることで」

「…なるほど。君は鋭いな」

柿崎はその場に置かれた長椅子に腰を下ろし、静かに語りはじめた。

「志は最初からあった。ただし、それが通るには“現実的な形”が必要だった。君たちは“裏金”と呼ぶが、我々には“潤滑油”だった」

「潤滑された先に、ひとが死んでる」

「それが犠牲と言うなら、君たちの捜査も誰かを傷つけている」

榊原は黙っていた。
その論理が、あまりにも冷静で、だからこそ狂気を孕んでいたからだ。

下山の車内で、田中が言った。

「あの人は、もう人の感情を持ってないように見えました」

「いや、違う」榊原は言った。「感情を“使い終えた”人間だ。言葉も、正義も、道具として使い終えた」

そして沈黙。
ふもとの街が見えてくる頃、榊原は静かに言った。

「だが、眠らないのは予算じゃない。“意志”だよ」

「意志?」

「佐藤が、健太が、三浦が、誰かに託した“声”だ。それが生きてる限り、この亡霊は沈まない」

帰庁後、榊原は捜査報告の末尾に、こう記した。

「“予算”とは国家の言語である。
だが、その語尾が誰にも届かないなら──それはすでに、犯罪の言語だ。」

この事件は、終わっていない。
終わらせるには、もう一段、深く踏み込む必要がある。

次は、柿崎の背後にある“政官財の横断接続”。
亡霊の正体は、そこにある。

第八章:名前なき議事録

会議とは、本来、言葉を記録する場である。
しかし、最も重大なことは、たいてい記録されない。
本当に動くのは、議事録の余白──名前のない“空白”である。

柿崎清隆の供述は、直接的な証拠能力を持たなかった。
だが、彼が自らの責任を否定せず、“犠牲”を是認したことにより、榊原の捜査方針は定まった。

「この事件の本質は、記録されなかった“了解”の連鎖だ」

田中は、報告書のフォルダを閉じて言った。

「じゃあ、どうやって証明します?『そんな会話があったかもしれない』では、何も立件できません」

「会話では立件できない。だが、“沈黙の痕跡”は残る」

榊原が指さしたのは、NEX-Cに関する社内の“会議スケジュール”。週報、出席記録、メールの送信時刻、移動記録。
その中に、ひとつだけ不自然な“空白の30分”があった。

「この30分、何が話されたかは残っていない。出席者も、記録が抹消されてる」

「でも、誰かがいた?」

「いた。佐藤の手帳にだけ、こう書かれていた──《C会議 12:00〜》」

“C会議”──社内に正式な会議名として登録されていない。
だが、複数の関係者のメールにその暗号のような単語が残されていた。

「例のCについて、午後確認する」
「Cの件、G氏に預ける」
「Cは形式通りに処理すればOK」

G氏。
このイニシャルが、榊原の記憶に引っかかった。

一週間前、沢村慶一の勤務先ビルで確認された防犯カメラ映像。
その中に、帽子を目深にかぶったスーツの男がいた。
顔ははっきり映っていなかったが、画像処理を施すと、識別補助AIが一致率92%で示した名前が──

郷原祐介。
政権与党所属、国交省とのパイプを持つ若手衆議院議員。
そして、佐藤誠が死亡する2ヶ月前、企業と省庁合同の“戦略推進会議”において、NEX-Cを強力に推した人物だった。

「議員に踏み込むとなると…いよいよだな」
田中が緊張気味に言った。

榊原は静かに言った。

「すべてを見ていたのは“会話”ではない。“関与の証明”は、その痕跡にある。郷原と佐藤の接点を洗い出す」

彼らは郷原の公開日程、議事録、記者会見内容、出張履歴などを徹底的に調査。
すると、ある日程が浮かび上がった。

4月18日、非公開会議:アクシードテック社幹部3名と意見交換

この会議の記録は、企業側にも官側にも存在しない。
だが、会場となった民間会議室の管理会社に照会をかけたところ、出入り記録に郷原のSPバッジ番号が残っていた。

「郷原はいた。記録されていないが、“その場にいた”」

そして決定的な証言をくれたのは、意外な人物だった。

「C会議に出たことがあります」
そう話したのは、元アクシード社の派遣スタッフ、女性秘書・岸本優里。

「私はその場で記録係を頼まれました。でも…メモはすべてその場で破棄されました。録音も禁止。全員、名刺も提出しませんでした」

「何が話されていた?」

「金の流れの“調整”です。“目立たないように帳簿を動かす”とか…“後から形式を整える”とか。“役所と相談済み”って、誰かが言ってました」

「誰が?」

岸本は、震える声で言った。

「“郷原”という名前を、はっきり聞きました」

その日。
榊原は報告書のタイトルを書き換えた。

【事件名】:アクシード帳簿偽装事件
【特定事項】:議員郷原祐介、暗黙的関与疑義

文末に、彼はこう記した。

「記録のない会議に、国家が動き、ひとが死んだ。
文字がなければ罪がないとするなら、この国はすでに無文字国家である」

“名前なき議事録”は、ようやく読み上げられ始めた。

だが、それを“公式に”記すには、もう一つの障壁を超えなければならなかった。

その障壁とは──世論。

第九章:発火点

誰が、どこで、何を話したのか──
証拠はなくても、事実は存在する。

だが、それを「事実」として扱うには、“火”をつけなければならない。
真実に、報道という酸素を与え、世論という炎で包まなければ、闇に飲み込まれて終わる。

郷原議員の名前が、いまだ公式記録には出てこない。
しかし、告発資料に名前をにじませたことで、メディア側の動きが変わった。

あるニュースサイトが“匿名関係者の証言”として、こう報じた。

「議員が非公式会議で金の流れに関与した可能性」
「記録に残らない会合──“C会議”の存在」

火種は、撒かれた。
だが、まだ火にはなっていない。
むしろ、火を付けようとする手に、強い風が吹きつけていた。

ある晩、田中が声をひそめて言った。

「ネットでは、すでに“陰謀論”として処理され始めてます。“与党潰しの印象操作”とか、“野党の情報操作”とか…」

「情報は、真実より先に消費される」

榊原は淡々と応じた。「だから、我々が“着火点”を選ばなきゃいけない」

「どうやって?」

「“名前を出さない”報道じゃ足りない。“責任”を問える報道が必要だ」

そのために、榊原は“ある人物”を訪ねた。

報道特集を中心に社会派ドキュメンタリーを手がけてきたベテラン記者、朝比奈修。
社会部の伝説と呼ばれる人物で、政治家と官僚に恐れられた唯一のジャーナリストとも言われる。

都内某所の喫茶店。
朝比奈は紙タバコの煙をくゆらせながら、報告書を読み終えた。

「…火薬は、十分だな」

「火をつけてくれますか?」

榊原の問いに、朝比奈は一拍置いて答えた。

「ひとつ条件がある」

「なんでしょう」

「お前が名前を出すことだ。“警察官・榊原哲也”として、記者会見で出てこい」

「記者会見…私が?」

「メディアは“顔”を求めている。“確かな人間が、そう言った”という事実が欲しいんだ。逃げるなら、これは燃えない。立つなら、世論は火になる」

数日後──

警視庁前。
報道陣に囲まれた榊原は、一本のマイクの前に立った。

制服ではない。私服でもない。
スーツにノーネクタイという、微妙な“公式と非公式の間”の装いで。

「私は、警視庁捜査一課の刑事として、本件に関わりました。
記録されなかった会議の中で、人ひとりが命を落としました。
そして、その責任は──組織の誰かではなく、具体的な“名”を持つ者にあると私は確信しています」

記者会見の夜。
SNSは加熱した。
郷原議員の名前が、一夜にしてトレンド上位に浮上した。

「郷原って誰だ?」
「C会議って何?」
「こんな“黙殺”があったのか…?」

だが、同時に“防火壁”も稼働した。

官邸筋は「事実関係を把握していない」と声明を出し、郷原は「一切の不正に関与していない」と会見を開いた。
強い表情、完璧なスーツ、冷静な語り口。
だが、その中にあったのは“論点の操作”だった。

「私は、そのような“非公式な会議”に参加した記憶はありません」
「記憶にない」は、「なかった」とは違う。
だがそれは、聞く者の心に届かない。

田中が榊原に言った。

「火はつきました。でも、この炎が“真実”を照らすか、“誰かを焼くだけ”か、わかりません」

「それでも、燃やさなきゃいけなかった」

榊原はそう言った。

「沈黙を破るってのは、正義じゃない。選択だ。リスクを背負っても、真実を曖昧にしないという選択だ」

「じゃあ、ここからは?」

「風向き次第だな。だが、あとは“彼ら”の出番だ」

「彼ら」とは、
佐藤誠の遺族、
三浦、
健太、
沢村──
そして、火の中でも言葉を捨てなかった者たちだ。

“発火点”は超えた。
あとは、どこまで燃えるかだ。

第十章:言葉の遺言

人は死ぬと沈黙する。
だが、その沈黙の中には、時に生きている者よりも力のある言葉が埋まっている。

佐藤誠が遺したもの──それは一冊の本と、赤くマークされた言葉たちだった。

「人は批判されたくない。正されるより、理解されたい」
「議論に勝つことで、相手の心を失うことがある」
「言葉は、使い方を間違えれば、鋭利な武器になる」

榊原は、捜査本部の一角で一人、本を読み返していた。
ページの隅に書かれた細い文字──それはもう、声ではなく“考え方の形”として存在していた。

郷原議員への疑惑が世論の火に包まれて数日。
佐藤誠の遺族は、初めて公の場に姿を現した。

記者会見に出てきたのは、妻・美香と、息子・健太。
二人とも、黒い服に身を包み、手に一枚の紙を持っていた。

「これは、夫が生前最後に私に渡したメモです」
美香はそう語りながら、震える声で読み上げた。

「誤解されてもいい。最後まで、自分の信じる方法で解決したい。
対話を拒む者にも、対話を試みる。たとえ、それが無駄に終わっても──」

その言葉は、全国ネットのニュースに生中継された。
“沈黙の遺言”は、ついに空気を震わせた。

翌日。SNSでは「佐藤誠」という名前がトレンドに入った。

「この人が死ななきゃ、誰も知ろうとしなかったのか」
「これほどの覚悟を、我々は“生ぬるい理想”と呼んでいたのか」
「佐藤誠のような人間が報われる社会じゃないのが、問題だ」

炎上ではない。
静かな波紋だった。
けれど、その波紋は、広く、遠く、深く、伝わっていった。

警視庁。
榊原は、田中と並んでデスクに向かっていた。

「これでよかったんでしょうか…」
田中の問いに、榊原は少し考えてから言った。

「よくないだろうな。佐藤は生きていない」
「でも、伝わった」
「そうだ。“死”が“伝達手段”になってしまったのは皮肉だが、それでも伝わった」

榊原は、一冊の文庫を手に取った。

『人を動かす』──デール・カーネギー。
佐藤が、死の直前まで読み込んでいた本だ。
その最終章に近いページに、赤線が引かれていた。

「人間関係において最も重要な技術は、他人の立場に立つことだ。
相手の観点から物事を見ること──それは賢さではなく、想像力の問題である」

佐藤は、それを信じて死んだ。

榊原は思った。
その信念は、現実に通じなかったかもしれない。
だが、それは“失敗した思想”ではない。
“失われた対話”があっただけだ。

そして、対話とは、やり方を間違えれば、命を奪うことすらある。
それでも、誰かが信じ続けねばならない。

事件は終わった。
だが、それは正義の勝利でも、悪の滅亡でもなかった。

ただ、
“誰かの言葉が、誰かの中に生き残った”というだけの話だ。

だが、それだけで世界は少しだけ変わる。
ほんの少し。けれど、確実に。

終章:静けさの形

「静けさ」とは、音がない状態ではない。
それは、語られるべき言葉が、語られた後に訪れる空白のことだ。

真実が広まりきったわけではない。
正義が勝利したわけでもない。
それでも、ひとつの事件が、人の中に何かを残した。

佐藤誠の死は、もうニュースにはならない。
世論の関心は別の事件、次の話題へと移っていった。
だが、それは“忘却”ではなかった。

むしろ、静かに染み込んだ記憶として、人の中に残り続けていた。

数ヶ月後。
田中美咲は、若手向けの警察内部研修で講師を務めていた。

「人を動かす捜査」と題された30分のレクチャー。
資料も配布されたが、彼女はスライドの多くを使わなかった。

ただ、こう話した。

「正義って言葉は使わなくていい。正しいかどうかは、人によって違いますから。
でも、“本当のことを知るために動く”という態度は、どんな現場にも必要です」

受講者のひとりが手を挙げた。

「人を動かすのは、理屈ですか?感情ですか?」

田中は、一拍おいて答えた。

「どちらも、たぶん不十分です。でも、**“言葉を信じる力”**だけは必要だと思います。
言葉には、嘘もある。でも、沈黙の中でだけ見えてくる言葉もありますから」

その日の夜。
榊原哲也は、異動先の地方警察署で、新たな書類に目を通していた。
山間の小さな町。時間がゆっくりと流れる場所だった。

その引き出しの奥には、今も一冊の本が収められている。

『人を動かす』──佐藤誠の本。
開かれることは少なくなった。
だが、それはすでに、榊原の中に刻まれていた。

「相手の立場に立つ。
ただし、それは“わかってやる”という態度ではなく、
“わからないまま付き合う”という覚悟のことだ」

榊原は窓の外を見た。
子どもたちが下校し、商店が店じまいを始め、
夕方の風が街を通り抜けていく。

静かだった。

でも、それは“何もない”のではなく、
“言葉が届いたあとの静けさ”だった。

【佐藤誠の記憶】は、国家を変えなかった。
議員は辞職しなかった。企業は正式な謝罪を出さなかった。
記録は薄れ、裁判も開かれず、真実の全貌は一部の人間の中でのみ共有された。

それでも、何かは残った。

健太は大学で心理学を学び始めた。
母・美香は地域の傾聴ボランティアを始めた。
三浦は、匿名で不正会計監視団体に参加し、数字の意味を社会に問い続けている。

そして、
榊原は「沈黙とは何か?」を知った。

それは、「何も言わないこと」ではなかった。
それは、「すでに語られた何かが、相手の中で音になるのを待つこと」だった。

人は、声だけで動くのではない。
沈黙が届くこともある。
その形が、対話の最後に残るものなのだ。

(完)

[出典:https://note.com/futen_seisuke/n/na91332b83454]

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