小学校の父親参観の日だった。
低学年の教室に、父親たちがぎこちなく並んで座り、後ろには母親が数人立っていた。窓から入る午後の光は明るすぎて、黒板の文字が少し白んで見えた。
今日の授業は「将来の夢」。児童一人ひとりが、原稿用紙に書いた作文を前に出て読む。教師は形式的に進行していたが、教室の空気はどこか浮ついていた。父親参観という場そのものが、子どもたちにとっては発表会であり、大人たちにとっては記録すべきイベントだった。
最初の子が読む。
「大きくなったら、中村俊輔みたいなサッカー選手になります」
笑いと拍手。誰かの父親が「いいぞ」と小さく声を出す。
次の子。
「大きくなったら、お母さんみたいな看護婦さんになります」
後ろで母親が目頭を押さえ、父親がビデオカメラを少し近づける。
そんな作文が続いた。夢は大きく、言葉は単純で、どれも想定の範囲内だった。
教室の後ろの方で、ひときわ熱心な両親がいた。父親は肩に据えたビデオカメラを一度も下ろさず、母親は隣で画角を気にするように子どもたちを見ている。
「こっち向いてー」
「もっと大きい声で読んでー」
教師が「静かにしてください」と注意しても、笑ってうなずくだけだった。
やがて、次の子の名前が呼ばれた。
前に出てきたのは、少し背の低い男の子だった。緊張している様子はなく、原稿用紙を両手でしっかり持っている。
彼は一呼吸おいて、はっきりと読み始めた。
「大きくなったら、総理大臣になります」
一瞬、ざわっとしたが、すぐに静まった。父親たちの間で「おお」という声が小さく漏れる。
作文は続く。
「そして、子どもに変な名前をつけちゃいけないっていう法律を作ります」
ここで、教室の空気が変わった。笑いは起きなかった。教師が一瞬だけ視線を上げる。
「変な名前だと、子どもはイヤです」
男の子の声は一定で、感情が乗っていない。それがかえって、言葉をそのまま突き刺した。
「大人は、子どもがイヤなことをしたらいけないと思います」
後ろの父親たちのビデオカメラの音が止まり始めた。誰も声を出さない。
「子どもに変な名前をつけた大人は、罰金にします」
母親たちの表情が硬くなる。教師は口を挟むタイミングを失っている。
「それから、変な名前の人は、自分で変えてもいいっていう法律を作ります」
男の子は最後まで、抑揚を変えずに読み切った。
教室は、完全に静まり返った。
さっきまで無遠慮に声を出していた両親が、いつの間にかビデオカメラを下ろしている。レンズは床を向き、父親の指は停止ボタンにかかったままだった。母親は原稿用紙を見ることもなく、ただうつむいている。
教師が咳払いをして、「ありがとうございました」と言うまで、誰も動かなかった。
次の児童の名前が呼ばれ、ようやく時間が流れ出した。
その日の授業が終わり、保護者が帰る頃になっても、あの作文の話題を口にする者はいなかった。あたかも、聞かなかったことにしたいかのように。
廊下で、教師がその子に声をかける。
「よく読めたね」
男の子はうなずいた。それ以上、何も言わない。
名簿に書かれていた彼の名前は、《恋獅子》と書いて、れんじしと読む。
数年後、彼は自分の名前を正しく書くたびに、説明を求められた。さらに年月が経つと、説明は嘲笑に変わった。就職活動では書類が通らず、面接では必ず名前の話になる。どこへ行っても、最初に見られるのは人間ではなく文字だった。
やがて、彼は法律を学び、政治の世界に足を踏み入れる。名前を変えることも考えたが、できなかった。変えれば済む問題ではないと、どこかで知っていたからだ。
そして時代が巡り、彼は本当に総理大臣になる。
就任会見で、記者の一人が尋ねる。
「ご自身のお名前について、どうお考えですか」
彼は一瞬だけ黙り、淡々と答えた。
「法律の話をしましょう」
その頃、彼の両親はすでに他界している。あるいは、生きていたとしても、名前を付けたことに対して法的に問われることはない。時間はすべてを洗い流す。責任だけを残さずに。
彼が最初に提出した法案は、子どもの命名に関するものだった。
成立まで、さほど時間はかからなかった。時代は彼の側にあった。
それが、罰のない法律であることを、彼だけが知っていた。
[出典:146 :コピペ:2007/08/03(金) 23:02:14 ID:i4kqtn130]