大学時代、同じゼミに奄美大島出身の男がいた。
物静かで、地元の話題になるといつも視線を逸らすやつだった。観光地や方言の話ならまだしも、昔話や家の由来の話になると、明らかに口数が減る。
ゼミ合宿の夜、酔いに任せて俺は軽い気持ちで聞いた。「イマジョって知ってるか」
奴は首を振った。本当に知らないというより、知らないことにしたような、そんな間だった。
俺はネットで拾った話を語った。古仁屋町の旧家に仕えていたヤンチュの女、イマジョ。美貌ゆえに主に手を出され、妻に妬まれ、納屋に呼び出されて殺された。家は没落し、一族は絶えた。よくある因果応報の怪談だ、と笑いながら。
奴は笑わなかった。
その夏、俺は奄美に行った。奴の家に泊まり、海で泳ぎ、泡盛を飲み、夜は家族と囲炉裏を囲んだ。どこにでもある穏やかな時間だった。
あの夜までは。
酔いが回った頃、俺はまたイマジョの話を出した。軽い気持ちだった。親父さんは最初、苦笑いを浮かべた。
「よう知っとるな」
その後の話は、俺の知っている形とは違っていた。
イマジョは身ごもっていた。納屋に監禁され、数日間、島の男たちに差し出された。最後は焼けた火箸で殺された。胎の子ごと。
死体を引き取りに来た家族は声を出さず泣いたという。そして村の古い作法で、イマジョと腹の子を使い、家に《返し》をかけた。
それから家は崩れた。跡取りは育たず、病で倒れ、事故で消え、血筋は途絶えた。
親父さんの声がそこで途切れた。
ふすまが、音もなく開いた。
白髪の老婆が立っていた。親父の母だという。細い体で、しかし目だけが異様に澄んでいた。方言で激しく何かをまくしたてる。言葉は理解できなかったが、意味は分かった。やめろ、と。
親父さんはうつむいたまま、何も言い返せなかった。
あの時、老婆は俺たちを見ていなかった。
俺たちの背後を見ていた。
翌朝、親父さんは静かに言った。
「島の年寄りはな、名を口にするだけで呼ぶと言う。話すもんじゃなかった」
友人は笑っていた。年寄りは大げさだと。
だがその年、俺たち三人はそろって留年した。理由はそれぞれ違う。単位不足、体調不良、提出忘れ。どれも偶然と言えば偶然だ。
冬、親父さんは車で単独事故を起こし、即死した。
葬式で、あの老婆は俺を見た。
その目は、確かに覚えていた。あの夜と同じ目だった。
俺を見ていない。
俺の背後を、見ていた。
それ以来、奄美に行っていない。行こうとすると、なぜか予定が潰れる。飛行機が欠航したこともある。
イマジョという名を、もう口にするつもりはなかった。
なのに、いまこうして書いている。
書いている最中、何度も背後が気になった。
振り返っても、誰もいない。
ただ、ふすまの向こうから、誰かが聞いているような気がする。
名を口にしたのは、あの夜だけではなかったのかもしれない。
(了)