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中編 r+ 奇妙な話・不思議な話・怪異譚

回すな rw+2,540

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それは、私がまだ土木事務所に入ったばかりで、現場の名前もろくに覚えていなかった頃の話だ。

事務所のいちばん奥に、ほとんど声を出さない老人がいた。書類の束を前にして、毎日同じ姿勢で座っている。誰かに話しかけられても必要なことしか返さないし、昼休みも一人で缶茶を飲んで終えるような人だった。

若い頃はダムの現場にいたらしい、とだけ聞いていた。

ある日の残業中、給湯室のポットが空になっていて、私が自販機で買った缶コーヒーを一本渡した。礼を言うでもなく受け取って、しばらく黙っていたが、急にこう言った。

「落ちる時はな、下ばかり見ないほうがいい」

何の話かわからずにいると、老人は缶のふたを指でなぞりながら、昔のことを話し始めた。

若い頃は、高いところがまるで怖くなかったという。鉄骨の上を渡るのも、足場の端に立つのも、地面を歩くのと変わらなかった。周りが危ない危ないと言っても、自分だけは落ちないと思っていたらしい。

その日もよく晴れていて、風だけが妙に強かったそうだ。ダムの躯体の横に組まれた足場は高く、見下ろせば谷の底が白っぽく霞んで見えるくらいだった。安全帯の金具が揺れるたびに、金属の触れ合う音が乾いて響いた。

老人は資材を抱えて、ひとつ先の板へ足を出した。

踏んだ感触が、妙だったという。

板が沈んだのではない。足裏の下から、そこで支えているはずのものが、急にいなくなったような感じだったと。

気づいた時には、身体が前ではなく、下へ抜けていた。

私は思わず息を呑んだ。四十メートル近い高さからの落下だ。話としてはそこで終わってもおかしくない。だが老人は、そこで一度口を閉じてから、小さく首を振った。

「すぐには着かなかった」

最初は風の音しか聞こえなかったらしい。耳の横を、何かが細く長く裂けていくような音だ。落ちていることはわかっているのに、いつまで経っても衝撃が来ない。人間は本当に死ぬと思うと、目を閉じる。だが目を閉じても終わらない。じっとしていられなくなって、また開ける。地面はまだ遠い。

閉じる。
開ける。
まだ遠い。

また閉じる。
開ける。
さっきよりは近い。

その繰り返しだったという。

老人は、その時のことを説明しようとして、何度か言葉を探したが、結局うまく言えないようだった。ただ、「長かった」とだけ言った。実際に何秒落ちていたのかではなく、自分の中で、死ぬまでの時間だけが異様に細かく刻まれていったのだと。

一瞬で終わるはずのものが、終わらない。

それが何より怖かったらしい。

私は、極限状態で時間感覚が狂ったのだろうと思った。人は事故の瞬間、妙に冷静になったり、景色を細かく覚えていたりすると聞いたことがある。老人もそういうものだと思って話を聞いていた。

だが、老人は次に、少し違うことを言った。

「落ちてるあいだ、考える余裕があった」

このままでは駄目だと思ったそうだ。ただ待って、叩きつけられるのを受け入れるしかない、その形が耐えられなかったらしい。若い頃に柔道をやっていたから、受け身を取れれば違うかもしれない、と考えた。空中で身体をひねり、地面に対してどう入るかを変えようとした。

それができたのも、落下が長すぎたからだという。

普通なら、考える前に終わる。

だがあの時は違った。

老人はそう言って、右腕を机の上に置いた。肘から先が、少しだけおかしい形でねじれているのを、その時初めて意識した。普段は長袖に隠れていて、私は気づいていなかったのだと思う。

「助かったのは、そのせいだ」

右腕から入って、骨も筋もひどく壊れたが、死なずに済んだ。すぐに下の連中が集まり、病院へ運ばれた。現場では奇跡みたいな話としてしばらく残ったらしい。

そこまで聞けば、よくある事故談として終わる。ひどい目に遭ったが生き延びた。教訓もある。無茶をするな、高所をなめるな、それで済むはずだった。

だが老人は、缶コーヒーを飲み切る前に、ぽつりとこう言った。

「左で落ちればよかった」

意味がわからず、私は聞き返した。

「どうしてですか」

老人は少しだけ笑ったが、その笑い方が妙だった。安心した人の顔でも、冗談を言う人の顔でもなかった。思い出したくない場所を、わざわざ目でなぞっているような顔だった。

「受け身を取るために、身体を回しただろう」

「はい」

「あれで、落ちる先が変わった」

私はそこで黙った。何を言っているのかわからなかったからだ。空中で姿勢を変えれば、着地の仕方は変わるだろう。だが、落ちる先そのものが変わるわけではない。

そう思ったのが顔に出たのか、老人は静かに続けた。

「地面に向かって落ちてたんじゃない」

その一言で、喉が詰まった。

老人は視線をこちらに向けないまま言った。

最初に目を開けた時、見えていたのは確かに現場の地面だった。二度目もそうだった。だが三度目か四度目あたりから、下にあるものが少しずつ変わっていたという。土の色が違う。資材置き場がない。見えるはずの重機がない。谷の形も違う。けれど落下の最中だから、自分の目がおかしくなっているのだと思った。そう思うしかなかった。

そのうち、地面らしきものの上に、人が立っているのが見えた。

現場の人間ではない。ヘルメットもかぶっていない。何人か、こちらを見上げていたという。顔は見えないのに、自分を待っているのだとわかったらしい。

そこで初めて、受け身を取ろうとした。

身体をひねった瞬間、下に見えていた場所が、もとの現場に戻った。

右腕が潰れたのは、その後だ。

老人はそこで話をやめた。私は何も言えなかった。時間感覚の異常だとか、落下中の錯覚だとか、そういう説明を頭の中で並べてみても、口には出せなかった。

しばらくして、私はひとつだけ尋ねた。

「そのまま回らなかったら、どうなっていたと思うんですか」

老人はすぐには答えなかった。空になった缶を机の上でゆっくり転がしてから、言った。

「今ここにはいないだろうな」

それが死を意味するのか、別の意味なのか、聞けなかった。

老人はそのあと、前よりいっそう話さなくなった。もともと寡黙な人だったが、私を見るときだけ、妙に確かめるような目をすることがあった。まるで、私がちゃんとこちら側にいるかを確認しているようだった。

ある日、古い図面の束を倉庫へ運ぶよう頼まれた。棚の上段に押し込まれた筒を取ろうとした時、一本だけ、床に落ちて広がった。

かなり昔の施工図で、今の地形と一致しない箇所が多かった。線の引き方も古く、墨が滲んでいる。私はしゃがんでそれを巻き直そうとして、端に小さく書き込まれた文字に気づいた。

現場の注意書きや寸法ではなかった。

「回すな」

そう書いてあった。

誰かのいたずらかとも思ったが、筆跡は妙に切実で、書き殴ったというより、震える手で押しつけたような跡だった。しかも、その文字は図面の余白ではなく、ちょうどダム本体の落差が記されたあたりに重なっていた。

気味が悪くなって、私は図面を元に戻した。

その日の帰り、老人の席は空いていた。体調不良で休みだと聞かされた。次の日も、その次の日も来なかった。結局、そのまま辞めたらしいと、しばらくして事務員の人が話していた。住所も連絡先も、誰もよく知らなかったそうだ。

席を片づけることになって、引き出しの中を見た人が、妙なことを言った。

書類のほかには何も入っていなかったが、いちばん下に、古い現場写真が一枚だけ残っていたという。若い作業員が何人か並んだ集合写真で、ダムの工区名と日付が裏に書いてあった。ただ、その中にいるはずの老人が、どれなのかわからなかった。全員がこちらを向いているのに、一人だけ、顔が写っていない男がいたらしい。首から上だけが、最初からそこになかったみたいに空いていたと。

その写真は、見つけた人が気味悪がって捨てたそうだ。

私はそれ以来、高い場所へ行くと、下を見ないようにしている。

怖いからではない。

本当に怖いのは、落ちることじゃないと知ってしまったからだ。

落ちているあいだ、何度も目を閉じて、また開ける。そのたびに下の景色が少しずつ変わっていく。あれが時間の引き延ばしだったのか、それとも、別のどこかに近づいていたのかはわからない。

ただひとつわかるのは、老人が助かった理由が、うまく受け身を取れたからではないかもしれないということだ。

何か別の場所へ落ちる寸前で、たまたま向きを変えただけだったのかもしれない。

そして、もしそうだとしたら、あの右腕だけは、ちゃんと向こうに触れてしまっていたのだと思う。

[出典:977 :可愛い奥様:2017/11/01(水) 17:46:40.85 ID:BVH0MlzW0.net]

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