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時間の延滞 r+2,540

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 それは、わたしがまだ新米として土木事務所の雑用をしていた頃の奇妙な話だ。

事務所の隅でいつも黙々と書類を整理している、寡黙な老人と話す機会があった。彼は、若い頃にダム建設の現場で働いていたという。顔には深く皺が刻まれ、その奥にある眼差しは、遠い昔の記憶を映しているようだった。ある晩、差し入れの缶コーヒーを渡すと、老人はぽつりと話し始めた。あの恐ろしい落下事故についてだ。

「若い頃のわたしは、それこそ死ぬなんて微塵も思っていなかった。鉄骨の上を平気で駆け回り、高所もなんのその、怖いもの知らずだったのだ」

彼はそう言って、寂しそうに笑った。その日もいつもと変わらない、雲一つない晴天だったという。四〇メートルはあろうかというダムの足場の上、風が強く、作業員たちの安全帯がカチャカチャと音を立てる。老人は、慣れた手つきで鉄骨を運び、次の足場へと踏み出した。その瞬間、足元に違和感を覚えた。古い木材が、長年の風雨に耐えきれず、ミシミシと音を立てたのだ。次の瞬間には、身体が宙に投げ出されていた。

わたしは、彼が語るその時の情景を想像し、ごくりと唾を飲み込んだ。四〇メートルの落下とは、ビルの十階か、それ以上の高さだ。地面に激突するまでの時間は、ほんの一瞬だろう。しかし、老人は首を横に振った。

「それが、一向に地面に辿り着かないのだ。風を切り裂く音だけが、耳元を通り過ぎていく。ああ、俺は死ぬのだ、と観念して眼を閉じると、ふっと意識が遠のくような感覚に襲われる。だが、すぐに頭の中に響く声で、眼を開けさせられる。あれ、まだ着かないのか、と、恐る恐る瞼を開けると、地面は遥か彼方、小さく見えるだけで、ちっとも近づいていなかった」

老人の言葉は、まるでそこにいるかのような臨場感を伴っていた。彼は、ただ落下するだけの時間を、永遠に続くかのように感じていたという。

「もう一度眼を閉じ、また開ける。まだだ。もう一度、閉じて、開ける。まだ遠い。だが、確実に、さっきよりは近づいている。その確信が、何よりも恐ろしかった。一瞬の死ではなく、少しずつ、少しずつ、破滅が迫ってくる感覚、とでも言えばいいのだろうか」

彼の話は、どこか奇妙で、非現実的な響きを帯びていた。常識では考えられない、時間の引き延ばし。なぜ、そんなことが起こるのか。わたしは、彼の言葉を必死に理解しようと、耳を澄ませる。

「何度も、何度もそれを繰り返すうちに、わたしは、これでは駄目だ、と強く思った。このまま死を待つのは嫌だ、と。柔道をやっていたからか、受け身をとれば、もしかしたら、と閃いた。身体を回転させて、受け身の体勢をとったのだ。だが、それは、身体が地面に近づいてきた、まさにその時だった」

老人は、その時のことを語る時、なぜか遠い眼をしていた。そして、わたしは、彼の話の真の恐ろしさに、まだ気づいていなかった。

「助かったのだ。右腕は使い物にならなくなったが、それでも命は助かった。地面に叩きつけられた衝撃は、想像を絶するものだったが、すぐに救助隊が駆けつけてくれたのだ」

老人は、そう言って、そこで話を締めくくった。わたしは、彼の強運と、機転に感嘆した。落下という絶望的な状況で、受け身をとるという冷静な判断。それは、生きる意志の強さの賜物だろう。しかし、わたしは、ふと疑問に思った。なぜ、彼は、何度も眼を閉じたり開けたりしたのだろうか。その疑問を口にする前に、老人は、もう一つ、恐ろしい事実を付け加えた。

「わたしは、後悔していることがある。あのとき、左腕で落ちればよかったのだ」

「え……? どうしてですか」

老人は、わたしを見つめ、静かに言った。

「受け身をとるために、身体を回転させた。そのせいで、わたしは、あの落下する場所を変えてしまったのだ。あのまま落ちていれば、もっと違う、誰も知らない場所で、一人で、静かに、落ちていたのかもしれない」

わたしは、その言葉の意味を理解し、背筋が凍りついた。彼は、落下する場所を選んでいたのだ。そして、彼の話す、あの「時間の引き延ばし」は、彼自身が作り出した、いや、強制的に体験させられた、ある種の「幻覚」だったのではないか。もし、彼が、あのまま受け身をとらず、右腕をブラブラにせず、そのまま地面に激突していれば……。

わたしは、それ以上は考えられなかった。彼の右腕は、もはやわたしが知る、老人の腕ではなかった。それは、あの落下事故の時に、彼が引き寄せてしまった、何か別の存在の「右腕」なのではないか。そして、彼が後悔していたのは、その「右腕」とともに生きていくことの、果てしない苦痛だったのではないか。わたしは、その日以来、彼に近づけなくなった。彼の顔を見るたびに、あの、何処か遠くを見つめる眼差しと、その奥にある、底知れぬ恐怖が、わたしを襲うからだ。

(了)

[出典:977 :可愛い奥様:2017/11/01(水) 17:46:40.85 ID:BVH0MlzW0.net]

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