もう何年も前のことだが、思い出すたびに喉の奥がきつく締め付けられる感覚だけは、今もはっきり残っている。
恐怖というより、息の通り道が一瞬で細くなるような、理由のない反射だ。
あのとき嗅いだ雨の匂い。湿った土が靴底に吸いつく感触。人の気配が一枚ずつ剥がれていくように薄れていった、あの妙な静けさ。どれも頭の奥に貼りついたまま、時間が経っても剥がれない。
O県N市。俺の地元だ。山と田んぼに囲まれた、取り立てて特徴のない町だが、夏の終わりにだけ、人が集まる行事がある。Y川の下流域、河原一帯で行われるT祭りだ。
表向きは、川の安全と実りを願う行事とされている。子どもの頃からそう教えられてきたし、実際、神輿も太鼓も、どこにでもある田舎の祭りと変わらない。ただ、この祭りについては、昔話がやけに多い。どれも話し手によって少しずつ違い、共通しているのは、最後まで聞いても腑に落ちないという点だけだった。
干ばつの年の話。川が枯れた年の話。誰かが沈められたという話。だが、名前も数も定まらない。兄妹だったとも言われるし、そうでなかったとも言われる。祀られたとも、捨てられたとも聞く。どの話も、途中で焦点がぼやけて終わる。
ひとつだけ、毎年変わらないことがある。T祭りの日には、必ず雨が降る。強い雨ではないことも多い。霧のように降ったり、気づいたら肩が湿っている程度の年もある。それでも、降らなかった年は一度もない。予報がどうであれ、その日だけは空が重くなる。
大学二年の夏、その祭りに友人たちを連れて行った。今思えば、あれが間違いだった。
当時は、心霊スポット巡りが流行っていた。怖がるより、ふざけるために行く。写真を撮り、騒ぎ、何も起きなければ笑い話にする。そんなことを繰り返していた。仲間は二人。背の高いYと、いつも軽口を叩くAだ。
俺がT祭りの話をすると、二人は面白がった。行こうと言い、断れば車を壊すなどと冗談めかして迫ってきた。結局、俺が折れた。
言わなかったことがある。俺自身、あの祭りにはあまり近づきたくなかった。理由はいくつかあったが、一番大きいのは、説明できない違和感だった。子どもの頃から、祭りの夜だけは、川の方を見ないようにしていた。それがなぜか、うまく言葉にできなかった。
当日も雨だった。傘を出すほどではないが、細かい水気が空気に混じっていた。河原には屋台が並び、人も多い。Yは食べ物を買い込み、Aはくじ引きに張り付いていた。いつもの騒がしさで、俺の警戒心も少し緩んでいたと思う。
花火が上がり、出店が片づけを始めるころ、空気が変わった。昼間の湿気とは違う、川底の土を掘り返したような匂いが強くなった。耳の奥が詰まったような感覚がした。
俺が何気なく周囲を見回した、その瞬間だった。
音が消えた。
完全な無音ではない。見えているものは動いている。人は笑い、話しているはずなのに、声が届かない。水の中に頭を沈めたときのように、世界が一段遠くへ引いていった。

Yがこちらを見て、妙に引きつった笑いを浮かべた。Aは笑うのをやめ、川の方を凝視していた。
Aが、何も言わずに指を伸ばした。
川の中央に、何かが立っていた。
最初は、影だと思った。だが、輪郭がはっきりしすぎている。人の形をしている。足元まで見えている。Y川のその場所は、水深がある。立てるような浅瀬でも、岩場でもない。
それでも、それは立っていた。動かず、こちらを向いて。
目が合ったと思った瞬間、視界が崩れた。
雨が一気に降り出した。さっきまでとは別物だった。空から叩きつけられるような雨で、河原の輪郭が白く滲んだ。川の音が、怒鳴り声のように膨れ上がる。
Yが叫び、俺たちは走った。理由は分からない。ただ、そこに留まってはいけないという感覚だけがあった。
車に逃げ込み、実家まで戻る間、耳元で小さなすすり泣きのような音が続いていた。誰の声かは分からない。後部座席を見ても、何もいない。
その後、俺は高熱を出し、数日寝込んだ。YもAも、その年以降、あの祭りの話をしなくなった。
あの川の中央に立っていたものが何だったのか、今も分からない。誰かだったのか、それとも、誰でもなかったのか。
ただ、T祭りは今も続いている。意味が定まらないまま、雨だけが確実に降る。今年もまた、夏が来る。
[出典:218 :本当にあった怖い名無し:2006/12/10(日) 02:27:04 ID:/WktQKKN0]