大学生の頃、ひょんな縁で南方の島へ渡ることになった。
戦中にそこで亡くなった日本兵の遺骨を収集し、本国へ帰すための作業要員だ。志願といえば聞こえはいいが、実際は暇を持て余していた時期で、霊だの祟りだのを少しも信じていなかった俺には、どこか他人事の延長のような話だった。あるなら一度くらい見てみたい。正直、それくらいの軽さだった。
日中は、白く焼けた空の下で土を掘り返す。赤茶けた地面は湿り気を含み、鉄臭さが鼻に残る。スコップが何かに当たる鈍い感触。土を払うと、欠けた頭蓋や歪んだ骨が現れる。手袋越しでも、その硬さと脆さははっきり伝わってきた。昼には缶詰を開け、骨を集めた手で飯を食う。そんな生活が、淡々と何週間も続いた。
夜になると島の顔は変わる。風はないのに樹木がざわめき、どこかで何かが滑り落ちる音がする。現地の人間は日没と同時に作業を切り上げ、さっさと宿に戻った。理由は聞かなかったし、聞きたいとも思わなかった。夜には、聞かなくていい音が増える。それだけは誰の顔を見ても分かった。
最初に異変を意識したのは、月のない夜だった。テントの中で蚊帳にくるまり、汗をぬぐっていると、遠くからかすかな歌声が聞こえた。旋律は軍歌に似ているが、拍子が曖昧で、途中が溶けるように崩れる。耳を澄ますと、歌と歌の間に会話が混じっているのが分かった。日本語だった。
「……なあ、帰ったら……あの坂を……」
断片的で、最後まで聞き取れない。普通なら身を縮める場面だろうが、俺は懐中電灯を掴んで外に出た。音のする方へ、泥濘を踏み分けて進む。葉が頬に触れ、足を取られながら近づくほど、声ははっきりしていく。だが光を向けた瞬間、すべてが途切れた。風も虫も止まり、葉擦れすら消える。あの空白だけは、今でも皮膚の裏に残っている。
それから同じことが何度も起きた。声は男だったり、女だったり、老いた響きだったり、妙に若かったりする。姿は一度も見えない。話の内容も奇妙だった。部隊名や階級、出身地を語ることはなく、子どもの頃に飼っていた犬の話や、家の近くの豆腐屋が朝早くから開いていたこと、そんな取るに足らない記憶ばかりだった。戦争の話は一切出ない。
ある夜、声の一つが尋ねてきた。「……日本は、どうなりましたか」
思わず笑ってしまい、「みんな豊かになりました。豊かすぎるくらいです」と答えた。短い沈黙のあと、「それはよかった」と呟き、声は消えた。そのやり取りは一度ではなかった。安心したように音が途切れるたび、なぜか胸に穴が空いたような感覚が残った。
現地の仲間や村の人間は、俺の行動を面白がり、「クレイジージャパニーズ」と笑った。だが俺には、それが冗談に聞こえなくなっていた。彼らは死んでもなお島を歩き回っている。しかも、自分がどこへ帰るべきかを、もう知らないらしい。
遺骨の搬送を終えた夜、ひときわ近い声がした。「……おまえも、こっちに来るんだろう」
音は外からではなく、頭の内側に直接響いた。懐中電灯を向けても何もいない。冗談半分に「そのうちね」と返したが、それきり返事はなかった。
帰国してからも、湿った匂いと崩れた軍歌が、不意に蘇ることがある。ある晩、部屋の隅で遺影がわずかに揺れた。母方の祖父だ。戦中、南方で行方不明になった人間で、遺骨は戻らなかった。
その時ふと思い出した。島で聞いた声の中に、「豆腐屋の前を毎朝通った」と語るものがあった。祖母の家の近くにも、昔から豆腐屋が一軒ある。そこを通らなければ、祖父の実家には行けない。
だが、それが誰だったのかを考えた瞬間、思考は止まった。確かめる術はない。確かめていいことでもない気がした。
今も、眠りの浅い夜に湿った歌声が聞こえることがある。窓を開けても風はなく、葉擦れの音だけがして、遠くで誰かが笑っている。呼ばれているのか、迎えに来られているのか、その違いすら分からない。ただ一つ確かなのは、俺の居場所が、もう一つ増えてしまったという感覚だけだ。
[出典:424 ：可愛い奥様：2010/01/16(土) 01:04:23 ID:HsvA31/D0]
