囲炉裏の火が落ち着くころになると、じいさんは決まって火箸をいじりながら、ぽつりぽつりと山の話をした。
その中でも、あの夜のことだけは、最後まで語りきらなかった。
話がそこに差しかかると、火を見つめたまま、しばらく黙るのだ。
若いころ、じいさんは山を渡り歩いて暮らしていた。
杉林ではなく、雑木の詰まった奥山だ。木の実や山菜、茸、時には兎や山鳥を仕留めて、炭を焼き、薪を切り出す。いくつもの小屋を転々としながら、山の中で何か月も過ごすのが当たり前だった。
その夜は、行程を読み違えたらしい。
次の小屋まであと少しというところで、空が暗みはじめた。
本来なら夜道は歩かない。だが雨もなく、尾根に出ればすぐだと踏んで、松明を灯して進んだという。
林を抜けた瞬間、視界がひらけた。
そして、妙な明るさに足を止めた。
山の端に、赤いものがかかっていた。
桃の実のように丸く、大きく、濁った赤。満月よりも低く、近い。
しばらく見上げてから、じいさんは眉をひそめた。
その日は二十夜を過ぎている。満ちる刻ではない。
そもそも、あの高さに月が出る時間でもなかった。
胸の奥がざわついた、そのときだ。
足元に小石が落ちた。
尾根は開けている。誰かが投げれば、影が見える。
だが次の石も、その次も、音もなく中空から降ってくる。
四つ目は握り拳ほどの塊で、耳元を裂くように飛び去った。
じいさんは伏せ、背の鉄砲を抜いた。
目を細め、赤いものの縁を狙った。
引き金を引いた。
乾いた轟音が尾根を震わせた。
直後、空からも重い音が返った。
鉄を打ちつけたような、鈍い衝撃音だった。
赤いものが、すっと消えた。
闇が落ちる。
その奥から、ぎゃぎゃぎゃぎゃ、と声が湧いた。
人の笑いに似ているが、人の数ではない。
幾重にも重なり、尾根を転げ、背中に貼りついた。
じいさんは立ち上がった。
走らなかった。
胸を張り、わざとゆっくり歩いた。
腰の山刀を、月のない空へ向けるようにして。
小屋に着き、筵をめくると、土間に銅鍋が転がっていた。
底は内側から凹み、丸く裂けている。
以前、仲間と泊まったときに使った鍋だ。
その夜は空だったはずだ。
じいさんは弾倉を確かめた。
一発、減っている。
鍋の穴に指を差し入れたが、弾は見つからなかった。
鍋の外にも、血も、毛も、何もなかった。
囲炉裏に火を起こし、夜明けまで目を閉じなかったという。
それきり、じいさんはあの尾根を越えなかった。
理由は言わなかった。
狸の話を振っても、笑わなかった。
ただ一度だけ、ぽつりと呟いた。
「二十夜過ぎの赤いのは、見上げるな」
それが月のことなのか、
それとも、あの高さに浮かぶ何か別のものなのか、
私はいまだに分からない。
山に入るたび、尾根に出るたび、
私は無意識に空を避けて歩いている。
[出典:792 :本当にあった怖い名無し:2021/07/04(日) 16:08:00.96 ID:1+woRPaB0.net]