数か月前、俺が体験した話をする。
場所は、うちの会社が所有している某県の山奥の研修施設だ。社員数の多いガテン系の会社で、毎年そこで泊まり込みの研修を行う。だがその施設には、昔から妙な噂がつきまとっていた。
戦国時代の合戦場が近くにあり、周囲は鬱蒼とした山林に囲まれている。中心にある三階建ての宿泊棟は、古びたコンクリートの箱のような建物で、窓は小さく、天井は低く、昼間でも薄暗い。廃校か閉鎖病棟のようだと、誰もが一度は口にする。
「二階の窓の外を誰かが横切る」
「三階の一室にお札が貼られている」
「夜中に長い髪の女が廊下を歩く」
どれも怪談としてはありきたりだ。だが語る者の表情が、揃って真顔なのが気味悪かった。
一階には資料室がある。業務中に亡くなった社員の遺品が、教養資料という名目で展示されている部屋だ。写真や作業服、ヘルメット、名札。整然と並んでいるが、供養というより封じ込めているように見えた。
去年の秋、三泊四日の研修で俺はそこに泊まることになった。
割り当てられたのは三階の大部屋。二十畳ほどの空間にベッドが六台、左右の壁に三台ずつ並び、仕切りは薄いカーテンのみ。病室のような配置だった。俺は左側の真ん中。
同室は六人。顔見知りもいる、気まずくはない面子だった。
夜はやることがない。酒も禁止、周囲に店もない。自然と例の噂話になる。皆、笑いながらも声が小さくなる。誰も完全には否定しない。
消灯前、いびきの自己申告大会になった。六人中五人が「うるさい側」だと判明し、早く寝た者勝ちだという空気になった。
だが、その夜に限って俺は眠れなかった。
やがて四方からいびきが響き始めた。右隣の後輩は宣言通り、鋭い歯ぎしりを始める。
ギチ……ギチギチ……
乾いた嫌な音だ。枕を頭に押しつけても貫通してくる。
そのときだ。
歯ぎしりが鳴り続ける中、後輩のベッドの方向から「うーん……」という寝返りの声と、小さな咳払いが聞こえた。
声は確かに後輩のものだった。
だが歯ぎしりは止まらない。
同時に鳴っている。
耳を澄ませる。左隣からは規則正しい寝息。他の四人もそれぞれのいびき。誰かが起き上がった気配はない。
六人全員が自分のベッドにいる。
では、後輩の枕元で歯ぎしりをしているのは誰だ。
ギチ……ギチギチギチ……
音が、少しずつ近づいてくる。錯覚ではなく、確実に。
俺は布団を頭までかぶった。目を閉じても、音だけが輪郭を持って迫る。
次に意識が浮上したのは朝だった。
カーテンを開ける音。眩しい光。誰も何もなかった顔をしている。後輩は笑いながら「いびき、やばかったっすよ」と言う。歯ぎしりの話題は出ない。
洗面所で左隣の先輩に尋ねた。
「昨日、他に何か音しませんでしたか」
「いや。耳栓してたからな」
そこで先輩は洗面台の隅を指した。
排水口に、一本の長い髪が絡まっている。
真っ黒で、まっすぐで、濡れて重く沈んでいた。六十センチはある。
男しかいないはずだ。
先輩はそれ以上言わずに去った。
俺はその髪を見下ろしていた。水の流れで、先端がわずかに震える。その動きが、歯ぎしりのリズムと重なった。
研修最終日、帰る前にもう一度資料室を覗いた。
展示棚の一角に、見覚えのないヘルメットが増えていた。名札が掛けられている。
俺の名前だった。
視線を感じて振り返ると、ガラスケースに映る自分の口元がわずかに歪んでいる。歯が、わずかに噛み合わず、横に擦れている。
ギチ。
耳鳴りかと思った。
だがその音は、ガラスの向こうから返ってきた。
それ以来、夜中に目が覚めることがある。
暗闇の中、確かに聞こえる。
ギチ……ギチギチ……
音の位置は、もう隣ではない。
口を閉じているはずの、自分の奥歯のあたりからだ。
[出典:198 :本当にあった怖い名無し:2020/02/03(月) 01:09:19.42 ID:08VTKZ4b0.net]