あの夜のことは、四年前にA本人から聞いた。
最初に聞かされたのは、ありえない話だった。
「○恵から電話が来たんだよ。死ぬ時間まで、ずっとつながってた」
冗談だと思った。だがAは笑わなかった。声も低く、何かを思い出すたびに背中のほうを気にしていた。あまりに様子が変だったので、私はその夜のことを最初から最後まで聞いた。
その頃、Aには大学で付き合い始めた○恵という恋人がいた。明るくて、よく笑う子だったらしい。仲間内で集まれば、Aと○恵が中心になって、夜中までどうでもいい話で騒いでいたという。
事故があったのは、空気が刺すように冷たい夜だった。Aは週末だけ深夜のバイトを入れていて、その日も帰宅したのは午前二時を回っていた。布団に倒れ込んで、ほとんど意識が落ちかけたところで、枕元の携帯が震えた。
画面には○恵の名前が出ていた。
こんな時間に何だよと思いながら出ると、聞こえてきたのは、いつもの声ではなかった。
「……まだ起きてたんだ。ごめんね」
その言い方が妙に重たかったとAは言った。泣いているというより、息を殺している声だった。しかも背後で、ずっと細かい雑音がしていたらしい。電波の悪い場所で混じるような、ジジ……シャー……という擦れた音だ。
「どこにいるんだよ」
そう聞くと、○恵は少し黙ってから言った。
「田舎から友達が来てて、ドライブに連れてかれてるの」
以前そんな話をしていたのをAも思い出したらしい。だからその時は、それ以上深く考えなかった。眠気もひどかった。
ただ、電話はなかなか切れなかった。
○恵は脈絡のないことをぽつぽつ話した。
就職するならその会社がいいとか。
食べすぎるとまた腹を壊すよねとか。
前にも話したようなことを、途切れ途切れに繰り返した。
Aが「おまえ、どうかしたのか」と聞くと、少し間があって、またあの声が返ってきた。
「……ごめんね」
「ほんと、ごめん」
「ごめんね」
何に対して謝っているのか、最後まで言わなかった。
気味は悪かったが、Aは限界だった。明日会えばいいと思い、「もう寝るぞ。また明日な」と言って電話を切った。時刻は、だいたい午前二時半すぎだったはずだとAは言った。
翌朝、まだ日も高くならないうちに、Aの携帯が鳴った。
相手は○恵の母親だった。
泣きすぎて言葉が崩れていて、最初は何を言っているのか分からなかったらしい。何度も聞き返して、ようやく分かった。
○恵が乗っていた車が、首都高湾岸線で分離帯に激突した。
乗っていた四人は車外に投げ出された。
ほとんど即死に近かった。
○恵だけ病院へ運ばれたが、助からなかった。
Aはそこで、時間を聞いた。
母親が答えた時刻は、午前二時三十五分だった。
Aはその場で声が出なくなったという。
昨夜、○恵と通話していたのは、まさにその頃だったからだ。
その日のうちにAは○恵の実家へ行った。玄関を開けると、母親が崩れるように抱きついてきて、顔をぐしゃぐしゃにしながら同じ言葉を何度も繰り返したらしい。
「ごめんね、ごめんね」
Aはその時、昨夜の電話を思い出したという。
泣き方ではなく、言い方が同じだったと。
語尾の落ち方も、息の詰まり方も、間の取り方も、昨夜耳元で聞いた○恵の声とそっくりだったらしい。真似をしているようにではなく、同じものを二度聞かされたように。
母親は、病院から返された壊れた携帯をAに見せた。ストラップが○恵の右手にきつく絡んだまま見つかって、外すのに時間がかかったのだという。
そこで、通話履歴を確認することになった。
壊れた画面を何度か押して、履歴を開いた。
Aが言った。
「そこに、ちゃんと残ってたんだよ」
二時三十五分を過ぎても、通話は続いていた。
事故のあとも。
搬送のあとも。
記録の上では、数分間つながったままだった。
その場にいた全員が黙った。母親も、親族も、Aも、誰も理由を口にしなかったという。言ってしまったら、別のものまで認めることになる気がしたのだろうとAは言っていた。
話はそこで終わらなかった。
事故のあと、Aはしばらく人を避けていた。大学にもあまり顔を出さず、私からの連絡にも出ない日が続いた。ようやく会えたのは、それからだいぶ経ってからだった。
ファミレスの隅で向かい合った時、Aはコーヒーにも手をつけず、しばらく黙っていた。
やっと口を開いて、最初に言ったのは後悔だった。
「あの時、切らなきゃよかった」
私は慰める言葉を探したが、Aの顔を見てやめた。あれは後悔の顔じゃなかった。何かを思い出して、今もその続きを恐れている顔だった。
Aは小さな声で続けた。
「電話切る直前、向こうで変な音がしてたんだよ」
「変な音」
「誰かが、ずっと運転席の下を叩いてるみたいな音。ゴン……ゴン……って」
事故の音ではないのかと私は言いかけたが、Aは首を振った。
「ぶつかる前からしてた。ずっとだよ。○恵の声が震えてたの、たぶんあれのせいだと思う」
そこまで話して、Aはまた黙った。
私も黙るしかなかった。
だが、一番聞きたくなかったことは、そのあとだった。
Aは急に目だけ動かして、私の肩の後ろを見た。そこに誰か立っているのかと思って振り返りそうになった時、Aが言った。
「途中で、一回だけ雑音が消えたんだよ」
私は振り返るのをやめた。
「急に音が澄んで、あ、聞こえるって思った。○恵が何か言うんだと思った」
Aはそこで唇を舐めた。乾いていたのだと思う。
「でも、○恵の声じゃなかった」
私は何も言えなかった。
Aは視線を私の後ろに置いたまま、はっきりと言った。
「男とも女とも分からない声でさ。すぐ後ろで言うみたいに聞こえたんだ」
「“もうすぐ着くよ”って」
その時、私はようやく振り返った。
もちろん、誰もいなかった。
Aは私の動きを見て、初めて少しだけ笑った。乾いた笑いだった。
「みんなそうするんだよ」
「どういう意味だ」
「この話を最後まで聞いたやつ、そこまで来ると、だいたい振り返る」
私は腹の底が冷えた。
Aはテーブルの上の携帯を裏返しにしながら、最後にこう言った。
「最初は電話の向こうから聞こえてたんだ。でも今は違う。あの声、たまに俺の背中のほうからするんだよ」
「着信音は鳴ってないのに、鳴った気がして振り返る。するとたまに、先に向こうが言うんだ」
「……もうすぐ着くよ、って」
それきりAはこの話をしなくなった。
ただ一度だけ、夜中に私へ短いメッセージを送ってきたことがある。
《今、また後ろで鳴った》
それがAから来た最後の連絡だった。
翌朝かけ直したが、つながらなかった。
その日からAの番号は使われていない。
そして妙なことに、私はこの話を誰かに聞かせるたび、最後のところで必ず一度だけ言い淀む。
なぜそこで止まるのか、自分でも分からなかった。
さっき、ようやく気づいた。
あの一文を口に出す直前だけ、背中のすぐ後ろで、着信音より先に声がする。
「もうすぐ着くよ」
[出典:412 :カメラマン:02/11/20 16:18]