お盆休みを利用して、私は岐阜と長野の県境付近へ車を走らせていた。
山肌を縫うような狭い道は、地図を広げても自分がどの位置にいるのか判然とせず、見知らぬ谷間に迷い込んだ気分になった。湿った杉の香りが車内にまで入り込み、少し窓を開けただけで肺の奥まで湿気が染みついた。
やがて見つけた退避スペースに車を寄せ、ハンドルから手を離す。金属の冷えが掌に残っていた。地図と睨めっこをしたが、どうやら道自体は間違えていないようだった。安心の息を吐き、ペットボトルのお茶をひと口含んだ。喉を通る水の冷たさよりも、山中の空気がやけにざらついているのが気になった。
一服して周囲を見回したとき、杉林の中腹に異物を見つけた。規則正しく並ぶ幹の奥に、人工的な角張った影。最初は山中の祠だろうと軽く考えたが、胸の奥でくすぐられるような好奇心が疼いた。車から降りると靴底に湿った土が吸い付く。
杉林は思ったより登りやすく、足元には落ち葉が重なりクッションのように沈む。十分ほど登ると木々の間が急に開け、小さな広場が現れた。そこには思った通り建物があった。しかし神社と呼ぶにはあまりに小さく、古びた板壁はひび割れて苔が縁を覆っている。鳥居もなく、ただ「祠」としか言えない存在がそこにぽつんと座っていた。
リュックを下ろし、カメラを取り出そうとしたときだ。背筋に針のような刺激が走った。誰かに見られている。そんな錯覚を人は笑うかもしれないが、あの時は確かに「視線」が刺さった。顔を上げた瞬間、遠くの杉の幹に白い影がサッと引っ込むのを見た。
頭が真っ白になり、身体は金縛りのように凍りついた。瞬きすらためらわれる。目の端に、白布のようなものがひらひらと幹の陰からはみ出しているのが映った。まるで子どもがかくれんぼをしているかのようだが、ここは人気のない山中だ。息を殺して凝視するしかなかった。
二十秒か三十秒か、時間の感覚は曖昧になった。次の瞬間、全身に氷を押し当てられたような寒気が走り、身体が勝手に解放される。思考より先に、足が斜面を転がり落ちていた。リュックを背負う動作も覚えていない。ただ必死に地面を蹴っていた。
下りの途中で二度も転んだ。掌の皮が剥け、泥が爪の間に入り込む。それでも「後ろを振り向いてはいけない」という確信だけが私を支配していた。振り返れば、あの白い布が顔を覗かせている気がしてならなかった。
車に飛び乗り、震える指でキーを回した。エンジン音がいつもの頼りなさではなく、避難所の扉を閉ざす鉄の響きに聞こえた。発進させると、横目の視界に確かに白い人影がよぎった。だが恐怖が思考を押し流し、「逃げろ」という命令だけが残った。
車を急発進させたはいいが、山道は蛇のように曲がりくねり、ライトの先は闇に呑まれていた。ハンドルを握る手が汗で滑りそうになる。耳の奥では、自分の鼓動とエンジン音が混ざって、轟々とした濁流のように響いていた。
しばらく走っても、他の車の影は一台も見えなかった。山間の道路では珍しいことではないはずなのに、あの時はそれが不自然に感じられた。世界に取り残されたような、圧倒的な孤立感。バックミラーを見る勇気は出なかった。鏡に映るのは後続車ではなく、あの白い影だと思い込んでしまったからだ。
やがて、道が緩やかに開けた。遠くに大型トラックのテールランプが見えた時、全身の力が抜けて、呼吸が乱れた。人の営みの痕跡があるだけで、ここまで安堵できるのかと思うほどだった。
それでも心は休まらなかった。隣のシートに視線を落とすと、泥まみれのリュックが転がっている。急いで背負ったはずのそれに、細い白い繊維のようなものが絡みついていた。裂けた布かと思ったが、光に照らすと湿った蜘蛛の糸のように細く、しかし異様に真っ白だった。触れるのがためらわれ、私は無意識に目を逸らした。
結局その夜、長野へのドライブを諦め、途中の道の駅に車を停めて震えながら過ごした。エンジンを切った駐車場は、不思議なほど静かで、他の利用者の姿はほとんどなかった。窓ガラスの外は闇に沈み、風も虫の声もなかった。ただ時折、ガラスに白い光がふっと映る気がして、眠りに落ちることは出来なかった。
朝を迎えても安堵は訪れなかった。陽光を浴びても背中の寒気は消えず、白い繊維はリュックから完全には取れなかった。気味が悪くなり、ゴミ箱にそのままリュックごと押し込んだ。
後日、あの祠について調べてみたが、地図や記録に一致するものは見つからなかった。周辺にはいくつか神社があると分かったが、いずれも私の記憶とは異なる。どれも山道から近い場所には存在しなかった。つまり、あの杉林の中腹に建物があること自体が腑に落ちない。
さらに妙なことに気づいた。カメラを構えようとした記憶はあるのに、実際に撮ったはずの写真が一枚も残っていなかった。メモリーカードには別の場所の風景だけが写っていて、山中の広場も祠もどこにもなかった。白い影を見たあの瞬間だけ、現実そのものが削ぎ落とされたかのように。
振り返って考えると、あの白い布は人の衣服の切れ端だったのかもしれない。あるいは、木霊のように木々の間で遊ぶ自然の影だったのかもしれない。そう結論づけようとするたび、リュックに絡みついていた白い繊維の感触が蘇る。
ひとつだけ確かなのは、あの夜以来、私は山に行くことを避けるようになったことだ。地図を広げても、岐阜と長野の県境付近だけは空白のように目を滑らせてしまう。今になって思う。あの広場に立っていた祠は、存在そのものが「人に見つかってはいけない」ものだったのではないか、と。
そして何より奇妙なのは、道の駅で一夜を過ごした翌朝、車のドアノブに細い白い繊維が一筋、残されていたことだ。私はそれを払うことができず、そのままドアを閉めた。あれは確かに、リュックに絡んでいたものと同じ色、同じ質感だった。
[出典:494 本当にあった怖い名無し New! 2012/03/10(土) 18:59:04.15 ID:K1CTxaCP0]