今でも正月の炬燵の匂いを思い出すと、胸の奥にざらつく感触が浮かぶ。
皆が眠って静まり返った居間で、薄暗い電球が畳の上に滲むような影を落としていた。
年越しの余熱がまだ室内に残っていて、鼻の奥には餅を焼いた甘い焦げの匂いが微かに残っていた。
私は大学受験を控えた学生で、妙に大人ぶりたい時期だった。叔父は湯呑みを片手に、寝巻の袖をまくりながら私の隣に腰を下ろした。湯気を吸い込んだのか、喉の奥がかすかに熱を帯びた。
叔父の話し方には、冗談とも本気ともつかぬ湿り気があった。
叔父は基本的に無愛想な方だが、その夜だけは妙に言葉を選んでいた。
私が「そういう話」をせがんだのだと、今なら分かる。
当時の私は自覚していなかったが、叔父の表情を思い返すと、既にどこか迷っていたのだと思う。
家族の間には不可侵の“黙約”のようなものがあり、心霊や怪談を口にしない雰囲気が流れていた。理由は誰も語らないが、子供でも空気は読める。
叔父は湯呑みを置き、襟元を軽く引いて首筋を掻いた。その仕草が不自然に長く感じられた。居間の空気が少し冷え込んだように思え、背中の肌がきゅっと縮こまった。私は正面を向いたまま、叔父の動きを目で追った。
「丑の刻参りって知ってる?」
叔父の声は妙に乾いていて、息が畳に落ちていきそうな響き方をしていた。
私は頷いたつもりだったが、返事が喉に引っかかって出なかった。叔父は続けた。
「昔の話でさ。俺はほとんど部外者なんだけど……たいしたオチはない。それでもいいなら」
そう前置きした時、叔父の両手がわずかに震えたように見えた。
居間の照明の影が指の節を強調し、妙に骨張っていた。
湯呑みの中の液面に揺らぎが走る。私はその震えを見なかったふりをした。叔父の体温がわずかに下がったように見えて、私は自分の膝を抱え直した。
叔父が中学生の頃、学校で奇妙な噂が立ったという。
「山の楠の幹に、男の写真と釘が打ち込まれていたらしい」。
その噂は瞬く間に広がり、誰が最初に見たのかも分からぬまま、全校生徒がその話でざわめいた。叔父は生来、臆病だったらしいが、誘われると断れない性分でもあった。
友人に声をかけられ、結局三人で山に入った。
山の匂いは湿った土と杉の皮のすえた香りが混じり、風が吹くたび肌にざらりと触れた。叔父は当時の空気を思い出すように、小さく鼻を鳴らした。
「見つからなかったよ。あの辺は楠なんて何本あるか分からない。探す方が無茶だ」。
無理に明るく振る舞ったような声だった。私は叔父の語尾のかすかな跳ねに気付いていた。
翌日、状況は急に変わった。学校中にいたるところで「見た」という声が上がった。中には興奮しすぎて笑いながら話す女子もいたという。彼女たちは皆、違う場所で同じものを見たと証言した。
叔父は湯呑みに手を伸ばした。指が縁に触れた瞬間、微かに爪が震えた。「場所が違うんだよ。複数あったらしい。それが……気味悪かった」
居間の空気が一段沈み、隣の部屋で寝ている家族の寝息だけが微かに聞こえた。私は息を吸い込みすぎて胸が苦しくなり、ゆっくり吐き直した。
叔父が見に行ったのは放課後だったという。山へ向かう通学路の脇、木の肌に打ち付けられていた写真は光沢紙で、被写体は正面を向いた無表情の男。
胸の位置に一本の古い釘が刺さり、写真の表面に小さな皺が放射状に走っていた。
「正面を向いてた男が、まるで俺を見てたみたいでさ……」
叔父は喉をゆっくり鳴らした。喉仏が上下する様が、息苦しさを帯びていた。
写真の裏には「タカハシショウゴ」とだけボールペンで書かれていたという。
叔父の声はそこで少し掠れた。私の足首に冷たいものが触れた気がして視線を落としたが、畳の模様が揺れて見えただけだった。
叔父の同級生は高橋省吾の噂を勝手に膨らませ、被害者も加害者も誰も実在しないまま、全てが架空の悪意で埋められていった。
噂は肥大し、興奮した子供の口からは「呪われる」「まだ生きてる」「逃げてる」などの言葉が、熱気のように漏れ出た。叔父はその空気を思い出したのか、指先を畳に置き、軽く押し込むようにしていた。
そして――写真の男、高橋省吾は本当に見つかった。
ここで叔父は初めて息を止めた。居間の空気がわずかに沈む。私は無意識に背筋を伸ばしていた。
続ける前に、叔父は畳の上に視線を落とした。「ここからは……あまり話したくないんだ」
その言い方は、まるでその内容が今も叔父の手の中に残っているかのようだった。
高橋省吾が見つかった、と叔父が言った瞬間、居間の空気がきしむように沈んだ。私は喉の奥で唾を飲んだ。部屋の片隅で正月飾りの紙垂が微かに揺れ、乾いた紙の擦れる音が耳に触れた。叔父は湯呑みに触れず、指先だけを膝の上で組んだ。
「偽名を使ってアパートを借りてたってさ。布団を被って、引きこもるみたいにずっと部屋の奥にいたらしい。何かから逃げるみたいに」
叔父はそこで呼吸をひとつ区切り、喉をゆっくり鳴らした。畳と膝の間に溜まった体温が、じわりと逃げていくようだった。私は思わず裾を握りしめ、指の腹に汗が滲むのを感じた。
叔父の友人は、騒ぎの中で半ば興奮した語り口で「呪われる」とか「逃げても無駄」と言っていたらしい。子供の残酷さは悪意というより、想像が方向を間違える時に生まれる熱のようなものだ。叔父の話を聞いていると、それがただの噂の熱気とは思えなくなってきた。
「アパートは、やけに湿ってたらしい。布団にカビが生えてて、窓の結露が乾いてる気配もなかったって。大家が言ってたよ。住んでる気配も、生活してる形跡も無いのに……布団はずっと敷いたままなんだって」
叔父は、そこだけ言葉の角に力を込めた。私は背筋を反らし、呼吸を整えた。湿度を思わせる話のせいか、居間の空気まで水気を帯びたようで、首元の肌がぴりつく。
クラスの噂はその頃、勝手に終息していた。飽きたのか、怖気づいたのか、誰も話題にしなくなった。だが叔父の友人の一人が、放課後の帰り道で言ったという言葉だけが叔父の耳に残った。「まぁ、どうせ呪い殺されるだろ。じゃなきゃ毎晩釘を打ってる奴が報われない」と。
叔父はその台詞をまるで舌の奥に貼り付けたような、嫌な声色で繰り返した。私は一瞬、叔父の顔を見た。目の奥にわずかな光の揺れがあり、ほんの少しだけ、居間の縁側の暗がりと色が混じって見えた。
それから数ヶ月が過ぎ、季節が変わった。叔父はその噂を半ば忘れかけていたらしい。正月の夜、私に語っている今と同じように、当時も何か別の事で頭がいっぱいだった、と叔父は目を伏せながら言った。思春期の雑多な悩み――勉強、友人関係、家の空気……脈絡もなく色々が重なって、あの噂の熱量が自然に背景へ沈んでいった、と。
だが、噂の尾だけは消えていなかった。
叔父がその写真を拾ったのは、通学路でもなく山でもなく、全く別の場所だったという。卒業式の準備で学校に残っていた日の帰り、薄暗い廊下の角を曲がった時、掃除のバケツの横に落ちていた。
「……普通じゃないだろ、あれは」
叔父は声を押し殺すように言った。湯呑みの影が畳に沈む。私は膝を寄せ、叔父の手元に視線を落とした。
写真は見覚えのある光沢紙だった。中心に丸く穴が開き、穴の縁から繊維がほぐれ、紙質が呼吸するみたいに波打っていた。高橋省吾の表情は以前と同じ、正面を向いたまま、口角も上がらず下がらず、ただ無機質な顔だった。
だが叔父いわく、穴の位置が微妙にずれていたらしい。以前見たものより、心臓の位置から少し外れたところに釘の痕があった。
「手に取った時、紙が妙に暖かかったんだよ。懐に入れてたみたいな……いや、違うな。誰かが最近触ったような、体温が残ってた」
叔父は腕を擦り、体温を確かめるように肩を縮めた。私は息を止めたまま、その続きを待った。
叔父は写真を裏返した。裏面は、前のものと違い、ボールペンの筆圧が妙に強く、文字が浮かび上がるほど深く食い込んでいた。
「……皆様のご協力感謝いたします。タカハシショウゴを見つけました。タカハシショウゴは見つかりました」
叔父はそこまで言うと、話すのを止めた。喉が乾いたように、唇を舐めた。私は背中に冷たいものが這い上がる感覚を覚え、炬燵の布団に足を押しつけて体温を確かめた。
叔父は写真を拾ったその瞬間から、誰にも言っていないという。その夜も結局、写真をどこに置いたのか、どう処理したのか、叔父自身が覚えていないままらしい。捨てたのか、燃やしたのか、どこかに紛れたのか。記憶が淡く飛んでいるという。
「ただ一つだけ覚えてる。裏の文字を読んだ時、廊下の向こうで、誰かが足を引きずる音がしたんだよ。ほんの一歩だけ。たった一歩なのに、そっちを振り向けなかった」
叔父は拳を固め、膝の上に置いた。手の甲にうっすら血の気が引いていた。私は何も言わず、ただ呼吸を整えた。部屋の空気がまた温度を変えたように思えた。襖の向こうで寝ている家族の気配さえ、距離を失ったようだった。
その一歩が誰だったのか。叔父は今でも分からないと言う。ただ、あの写真が“戻ってきた”ように感じたことだけが、ずっと胸のどこかに刺さったままだと。
叔父はここで、ゆっくりと顔を上げた。
「……中学生の時、俺は部外者のはずだったんだけどな」
その言い方が、妙に静かで、やけに重かった。
叔父がその言葉を吐いた瞬間、居間の空気が微かに沈んだ。炬燵の中の温もりが急に遠のくようで、足先がじんと痺れた。私は息を吸うのを忘れ、肩で短く空気を押し込んだ。照明が揺れたわけでもないのに、畳の影だけが濃くなった気がした。
叔父は、膝の上で結んだ拳をゆっくりほどいた。指の節が白く浮き、爪の色が戻るのに数秒かかった。まるで何かを握り続けていた手が、やっと空気に戻ったように見えた。
「……部外者のはずだったんだけどな。なのに、どうしてあれが俺の足元に落ちてたんだろうな」
叔父はそこで視線を宙へ泳がせた。居間の天井の木目が、薄暗い照明の下で柔らかく波打つ。その揺れが叔父の瞳の奥にも入り込んで、形の分からない影になった。
私は気付かれないように息を浅く整えた。心臓だけが規則を破って強く、そして不揃いに脈打つ。叔父の言葉はここからゆっくりと沈んでいき、聞いている私の体の隙間に溜まっていくようだった。
叔父は続けた。
「拾った写真はさ、次の日にはもう無かった。どこに置いたのか覚えてないって話しただろ? あれ、本当なんだよ。家にも学校にも無かった。俺の部屋の机の引き出しも全部ひっくり返したけど……何も出てこなかった」
叔父の目がそこでわずかに細くなり、唇が硬く閉じられた。私は無意識に姿勢を正した。背中の筋が一本だけ緊張し、呼吸が短くなった。
叔父は、拾った日の帰り道のことをぽつりと継ぎ足した。
「学校の昇降口を出たとき、風も無いのに砂ぼこりが足元で揺れたんだよ。誰かが横を通ったみたいに。だけど周りには誰もいなかった。あれは……音が先にして、景色があとから揺れたように思えた」
私は喉の奥で詰まる感覚を覚え、唾をうまく飲み込めなかった。叔父の語る“ずれ”が、時間のほころびみたいに感じられた。
叔父は視線を畳に落とし、小さな声で続けた。
「……そのときからかもしれない。気のせいかもしれないけど、帰り道が妙に静かでさ。人の気配だけが一歩後ろにずれてついてきてるような……そんな感じがしてた」
叔父は語尾をかすかに震わせ、私から視線をそらした。その横顔の影が、照明の位置のせいで妙に濃かった。
「そのうち、噂自体が町から消えた。誰も高橋省吾の話をしなくなった。交通事故で死んだって話を、一人だけが言っただけで、それきり。もう名前そのものが、誰の舌にも残らなくなった」
叔父はそこまで言ったあと、急に口を閉じた。何かを続けようとして止められたように、唇の端がわずかに引き攣れた。
私は待った。叔父の沈黙の先に、まだ“開いていない最後の扉”があると分かったからだ。
叔父は、しばらくしてから、細い息を漏らした。
「……全部忘れようとしてたんだよ。怖いっていうより、妙な嫌な感じだけが残ってさ。あの裏の文字も、あの一歩の音も、全部。忘れようとしたんだ」
叔父は襟元をつまみ、喉から胸にかけて摩った。皮膚をなぞる指の動きが、まるで何かの跡を確かめているようだった。
「でもさ。今でも時々思うんだ」
叔父はゆっくりと、こちらを見た。
私の顔ではなく、私の“胸のあたり”を。
「もしあの写真の裏の文字が……『見つけました』じゃなくて、『見つけています』だったらどうする?」
私は反射的に胸元を押さえた。押さえた手の下で、自分の心臓の拍動がひどく強く、そして妙に近かった。
叔父の声はそこで、ほとんど囁きのようになった。
「俺は部外者のはずだった。けど、あれは俺の足元にあった。俺が最後に拾った。じゃあ……あいつが“見つけた”のは、本当に高橋省吾だけだったのか?」
照明の下、叔父の影がわずかに震えた。
その震えが、畳の上でじわりと広がるように思えた。
私はゆっくりと、息を吸い直した。鼻の奥に残っていた正月の焦げた匂いがやけに薄く、遠ざかっていくようだった。
叔父は目を伏せ、最後にこう言った。
「お前が拾わないように、気をつけろ。あれは……誰のところに戻るか分からないからな」
そのとき、襖の向こうで、
布団の上を“何か”が一歩だけ踏んだような音がした。
私は振り向かなかった。
叔父も振り向かなかった。
ただ、その一歩だけが、居間の空気に深く沈んでいった。
[出典:237 :本当にあった怖い名無し 警備員[Lv.2][新芽] (ワッチョイ 7ab2-xozf):2025/02/26(水) 23:47:18.96ID:GbW4BdeC0]