あれは、小学六年の春先だった。
妙に蒸し暑い日で、教室の空気が重たく、肌にじっとりとまとわりついていたのを、今でも生々しく覚えている。
当時のわたしは、クラスの中では「ふつう」だった。目立ちもせず、浮きもせず。
スポーツができる子や、漫画の絵が上手い子がちやほやされていたが、わたしはどこにも属さなかった。
その一方で、地味で少し暗い印象の子たちが集まったグループがいて、教室の隅のほうでいつもひそひそと話し合っていた。
中でもひとり、地味な中にも変な自信を持っていた女の子がいて――名前は伏せるけれど、あえて仮に「ナツミ」としておく。
ナツミは、妙に押しが強いというか、内弁慶というか、とにかく自分の世界を押し通すタイプだった。
その日、放課後の教室でナツミが「こっくりさんやろう」と言い出した。
「やめなよ、気持ち悪いよ」
わたしも含め、それ以外の子たちは教室を出て、校庭に遊びに行った。
わたしは怖がりだったし、そもそもそういう“霊的な遊び”は関わらないほうがいいと、どこかで直感していた。
校庭で鬼ごっこをしていた頃だった。
誰かが、青ざめた顔で駆けてきた。
「教室が、すごいことになってるよ!」
わたしたちは駆け戻った。
あの光景は、一生忘れられない。
教室の真ん中に、ナツミが座り込んでいた。叫び声を上げながら、口から泡を吹き、足元にはおしっこの水たまり。
身体をぐにゃぐにゃと反らせ、顔はひきつったまま涙と唾液で濡れていた。
こっくりさんの紙はぐしゃぐしゃに破れ、十円玉は机の端に弾き飛ばされていた。
周囲の地味グループの子たちは誰も言葉を発せず、ひとりは泣きながら壁に突っ伏していた。
誰かが職員室に走り、先生たちが駆けつけたが、場を収めるのにしばらくかかった。
次の日、ナツミは学校に来なかった。
それから一週間、ひと月、そして卒業式――とうとう姿を見ることはなかった。
担任は「しばらくお休みします」とだけ言った。
いなくなったのに、家だけは残っていた。通学路から少し離れた住宅街の一角、白い二階建て。
でも、誰が見に行っても、カーテンは閉め切られ、洗濯物もなく、人の気配はなかったという。
夜逃げでもない、失踪でもない。
ただ、「消えた」のだ。
中学校になってもナツミは現れなかった。
別の中学に転校したという噂も出たが、どれも裏は取れなかった。
時間と共に記憶は薄れ、わたしたちは成長し、社会に出ていった。
ところが、三十代半ばを過ぎたある頃から、同級生の間で、ある噂がささやかれ始めた。
「ナツミを見た」
それも――「あの頃の姿で」だ。
最初は、ひとりの女子が話していた。
「建売の家を見学に行った時、ベランダから外を見たら、向こうの空き地に……いたの。赤いスカートの子が、じっとこっち見てて……」
そう言って彼女は震えていた。
よくよく聞くと、そのスカートはプリーツが入っていて、肩で×にかけるタイプのたすきスカート。
丸い衿に刺繍のある白いブラウス、段カットの白いハイソックス――それはまさに、小六当時のナツミの服装だった。
同窓会の席でその話をしたところ、「それ、わたしも……」と続く声がぽつぽつと上がり始めた。
ある男は、出張帰りに電車のホームで彼女を見たという。
反対側のホームでじっとこちらを見ていた。
逃げるように電車に乗ったが、顔を上げると、窓の向こうにまだ立っていたという。
奇妙なことに、目撃者の証言は服装、髪型、表情のなさまで、まったく一致していた。
当時のナツミのまま、十年以上の歳月を超えて現れているのだ。
わたしは、その時点ではまだ目撃していなかった。
だからどこか、信じていない部分もあった。
でも、同窓会のあと、じわじわと不安が胸に染み込んできた。
「わたしにも、来るんじゃないか」と。
その夜は眠れず、布団の中で昔のことを思い出していた。
あの時、こっくりさんをしていた教室。十円玉のかすれた光。ナツミの引きつった顔。
ふいに、部屋の窓からパチ……と音がした。
カーテンが揺れたのは、風のせいだと思った。そう思いたかった。
でも、見てしまった。
向かいのアパートの非常階段に、赤いスカートの影が立っていたのだ。
背中で×になったたすき、刺繍の襟、白いソックス。
顔は見えなかった。ただ、わたしが見ていることを、向こうも知っていた。
次の日、熱が出た。会社を休み、食欲もなく、布団の中で震えていた。
スマホには、同窓生からのメッセージ。
「ねえ、〇〇(ナツミ)が、また出たって聞いたけど、アンタ、大丈夫?」
わたしは返事ができなかった。
それからというもの、夜になると時折、カーテンの隙間が気になって仕方がない。
赤いスカートの影がまた現れるんじゃないか、と。
わたしが、「こっくりさんをやめなよ」と言ったことを、ナツミはまだ怒っているんじゃないか。
それとも、あの時、何か「境界線」が壊れてしまったのだろうか。
一度この世に足を踏み入れた者は、もう向こうに戻れないのだろうか。
そういえば、こっくりさんのルールには、ひとつだけ決して破ってはいけないものがあった。
「終わるとき、きちんとお礼をして、お帰りいただくこと」
ナツミたちは、やったのだろうか。
あの時、誰も気にしていなかった。
今となっては、もう確認のしようもないけれど。
わたしは今日も、窓のカーテンを少しだけ開けたまま、眠りにつく。
見たくない。でも、見逃すのはもっと怖いから。
[出典:121 :可愛い奥様:2008/07/25(金) 12:43:47 ID:VPAaJ4Z/0]