かつて私が勤めていた訪問販売の会社では、契約のことを「取る」とは言わなかった。
「いただく」と言え、と教えられていた。
誰から、何をいただくのか。
そこまでは、誰も口にしなかった。
私たちは数人一組で動く。車両長が営業エリアを決め、営業マンを集合住宅に降ろす。話をまとめるのは営業、最後に判をもらうのは車両長。役割は単純だった。
あの件があるまでは。
本社にAという若い男がいた。数字は常に上位。迷いなくインターフォンを押し、迷いなく家に上がり、迷いなく了承を取る。取る、ではない。いただく、だ。
その日も、Aは新築のファミリー向けマンションに降ろされた。契約が決まりやすい物件だった。私は別の棟を回っていたが、あとで車両長のGから聞いた。
最後の一室で、若い女が応対したという。
すんなりと室内に招かれた。リビングに通され、説明を始めたとき、Aは天井を見た。
赤ん坊の写真が、隙間なく貼られていた。
笑っているもの、泣いているもの、眠っているもの。大きさも角度もばらばらだが、すべて天井に向いている。こちらではなく、下を見ている。
Aは視線を逸らした。契約が先だ。天井は関係ない。
女はよく頷き、よく笑い、何度も「いいですね」と言った。
了承は早かった。
Gが部屋に上がり、捺印の説明を始めたとき、隣の和室から声がした。
低い、押し殺した声。
「うう……うう……」
Gは言葉を止めた。Aも、女も、動かなかった。
声は続いた。苦しんでいるようにも、笑っているようにも聞こえる。
女の表情が消えた。
ただ、Aを見ていた。
「印鑑を」
女はそう言った。
口元だけが動いた。声は少し遅れて届いた。
「いいいいい……ん、かん……」
和室の声が、突然、引き裂かれたような絶叫に変わった。
Aは逃げた。Gも逃げた。女は追わなかった。
玄関を出るとき、Aは振り返った。
女は正座していた。背後の襖が、指一本分だけ開いていた。
暗闇の奥で、何かがこちらを見ていた気がした、とAは言った。
翌日、Aは機器を忘れたことに気づいた。
会社の備品だ。取りに行かないわけにはいかない。
私も同行した。
問題の部屋の前で、Aは足を止めた。ガスメーターに黄色い札がついていた。空室の印だった。電気も止まっている。
インターフォンは鳴らない。
管理会社を呼び、鍵を開けてもらった。
部屋は、空だった。
天井は白い。何も貼られていない。家具もない。
ただ、部屋の中央に、Aの機器が置かれていた。
昨日、確かに使った位置に。
管理会社の担当は首を傾げた。この部屋は竣工以来、まだ一度も入居していないと言った。
Aはそれから休んだ。
ひと月後、条件付きで復帰した。新築物件には行かない。例のエリアにも近づかない。
しかし、一週間後。
Gの携帯にAから電話が入った。
「もう決まりました」と言うはずの時間だった。
無言が続き、やがて物が倒れる音、息を詰めたような声が混じった。
「また……出たんです」
女は、別の古びたマンションにいたという。
普通の部屋。普通の応対。普通の了承。
電話をかけようとした瞬間、目の前の女の顔が、ゆっくりと変わった。
粘土のように歪み、あの日の女になった。
そして言った。
「また会ったね」
Aはそのまま辞めた。
失踪したと聞いている。
ただ、辞表は受理されている。
誰が持ってきたのか、私は知らない。
それから数年後。
私も車両長になった。
若い営業を、新築マンションに降ろすことが増えた。
昨日、ある部屋で契約がまとまったと連絡があった。
優秀な新人だった。声が少し震えていた。
「すぐ来てください」と。
部屋に入ると、天井に写真はなかった。
白い天井。
女は笑っていた。
どこかで見た顔だと思った。
捺印の説明をしていると、隣の和室から声がした。
低い、押し殺した声。
「うう……」
新人が、私を見た。
その目は、どこか懐かしかった。
女が言った。
「印鑑を」
私は鞄から印鑑を出した。
なぜ自分のものを持ってきているのか、そのとき疑問に思わなかった。
女は、私を見ていた。
「また会ったね」
そう言われた気がした。
誰に向けて言ったのかは、わからない。
帰社後、契約書を確認すると、署名欄に私の名前があった。
顧客名の欄にも、同じ名前が書かれていた。
写真は貼られていない。
ただ、書類の白い余白が、天井のように広かった。
最近、新人がよく育つ。
呼び鈴を押すのを、ためらわない子が多い。
今度、あなたも来るだろう。
そのときは、上を見ないほうがいい。
見ると、覚えられるから。
[出典:34 :営業会社の話(1/3):2011/01/19(水) 21:09:13 ID:iumaAo9x0]