かつて私が身を置いていた訪問販売の会社には、まことしやかに囁かれる一つの怪談があった。
それは、ある優秀な若手営業マンを襲った、悪夢のような出来事の記録だった。ここでは、その話を小説風に再構成してお伝えしよう。もし、あなたの背筋を少しでも凍らせることができなければ、どうかご容災いただきたい。
物語の前提として、私たちの営業スタイルを説明しておこう。数人の営業マンで構成されるグループには、「車両長」と呼ばれるリーダーが一人つく。車両長は、その日の営業エリアを指示し、我々を集合住宅などの現場に降ろす。営業マンはそこで見込み客を見つけ、契約寸前まで話を進める。そして、最終的な契約書へのサインは、再び車両長が顧客のもとへ赴き、取り付けるという段取りだった。
本社に、Aという名の若い男がいた。彼は入社当初から群を抜く営業成績を上げ、周囲からも一目置かれる存在だった。特に、Bグループの車両長であるGは、Aの才能を高く評価し、何かと目をかけていた。そのため、AはGの車両に乗って営業に出ることが多かった。
ある晴れた日のことだった。その日もGの車両に同乗していたAは、最近の好調な業績もあってか、Gの計らいで、契約が比較的容易に決まりやすいとされる新築のファミリー向けマンションに、優先的に降ろされた。意気揚々とインターフォンを押し始めたAだったが、期待に反して、その物件は留守や居留守が多く、呼び鈴に応答する住人は一向に現れない。まあ、こんなことは日常茶飯事だ。Aは特に気にも留めず、淡々と最後の部屋のインターフォンを押した。
『はい』
受話器の向こうから、若く、澄んだ女性の声が聞こえた。美人だったらいいな、などと下心にも似た期待を抱きつつ、Aは意識せずとも淀みなく出てくる営業用の挨拶を口にした。程なくして、ガチャリと音を立てて開いた玄関の扉の向こうに立っていたのは、非常に感じの良い、柔和な雰囲気の女性だった。有り体に言えば、「これは決めやすいかもしれない」と直感させるタイプの顧客だ。しかも、滅多にお目にかかれないほどの美人。Aのモチベーションは、否応なしに高まった。
「これは、いけるな」
これまでの営業経験で培われた勘が、Aの脳内で警鐘のように鳴り響いた。会話のテンポも、言葉の端々から感じられる相手の反応も、全てが噛み合っている。Aの予想は的中した。女性は、玄関先での短い立ち話だけで、Aの商品にかなりの興味を示し、驚くほどすんなりと室内に招き入れてくれたのだ。
リビングに通され、カウンターキッチンへと案内されたAは、そこで信じられない光景を目の当たりにし、思わず顔を青くした。部屋の天井一面に、おびただしい数の赤ちゃんの写真が、隙間なくびっしりと貼り付けられていたのだ。写真のサイズも、写っている赤ちゃんの顔も様々だったが、とにかく天井全体を覆い尽くしている。それは、筆舌に尽くしがたいほど異様な光景だった。
Aはその常軌を逸した光景に強烈な恐怖を感じたが、つい先程まで言葉を交わしていた女性の、ニコニコとした人懐っこい笑顔と気さくな態度は決して悪いものではなく、むしろ好感を抱いていたほどだった。そして何よりも、「これくらいのことで、目の前の大きな契約チャンスを逃すわけにはいかない」というプロの営業マンとしてのプライドが、彼の心を支配した。
「天井の写真は確かに気味が悪いが、今は気にしないでおこう」
Aは自身にそう強く言い聞かせ、商品説明やデモンストレーションを、時には冗談も交えながら、できる限り自然に振る舞いながら続けた。ファミリー向けの物件では、夫の反対などで契約が土壇場で流れるケースが多い。しかし、そういった懸念も一切なく、交渉はかつてないほどスムーズに進み、さほど時間もかからずに、女性から契約の了承を得ることができた。
Aは女性に丁寧に断りを入れてから、契約手続きのために車両長であるGを電話で呼び出した。しばらくして部屋に到着したGもまた、Aと同じように、天井の赤ちゃんの写真に一瞬言葉を失い、面食らっている様子だった。契約内容の最終確認を行う際も、Gの口調はどこかぎこちなく、視線は落ち着きなく宙を彷徨っていた。A自身も、この部屋の不気味な雰囲気には一刻も早く別れを告げたかった。できることなら、さっさと契約を終わらせて、この異様な空間から脱出したい、というのが正直な気持ちだった。
しかし、後は契約書に捺印さえもらえれば全て完了、というまさにその時、異変は起きた。
「では、こちらと、こちらと…」
Gが捺印の箇所を指で示しながら説明していると、突然、隣の和室へと続く襖の向こうから、低く、押し殺したような男の呻き声が聞こえてきたのだ。
「ううー……うー……」
それは、成人男性のものにしては異常に低く、地の底から響いてくるような声だった。思わずぞっとするほど苦しげで、同時に深い恨みを込めたような響きを帯びている。さすがにAとGも顔色を変え、反射的に襖の方を見やった。そして、恐る恐る女性の顔を伺う。すると、つい先程まで人の良い笑みを浮かべていた女性の顔から、一切の表情が消え失せていた。感情というものが抜け落ちたかのような、能面のような無表情で、彼女はただじっとAを見つめている。
Aは、この重苦しい沈黙と恐怖を払拭するために何か言葉を発しようとしたが、女性から放たれる異様な雰囲気を感じ取り、思わず言葉を飲み込んだ。目の前の女性に対して、心の底から言いようのない気味の悪さを感じていた。それは、理屈ではなく、生存本能が発する警告のようなものだったのかもしれない。Gもまた同じ恐怖を感じているようで、二人ともまるで金縛りにでも遭ったかのように、ただ黙って女性を見つめることしかできなかった。その間にも、「ううーーー……うーー……」という呻き声は止むことなく続き、むしろ徐々にその音量を増しているようにさえ感じられた。
突然、女性が「ギギ……」とも「ググ……」ともつかない、奇妙な音を喉の奥から漏らした。それは、おそらく笑い声だったのだろうと、Aは後になって思った。しかし、その時の彼女は相変わらず表情を微塵も動かさなかったため、それが何なのかは判然としなかった。
「印鑑を……」
ぼそり、と女が呟いた。
「は……」と、何とか絞り出すように声を発したAに対し、女性は口元だけを歪め、にいっと笑った。その笑顔は、もはや人間のそれとは思えなかった。
「いいいいいいい……ん、かん……」
女性が、まるで引き伸ばされたカセットテープのように、途切れ途切れに言葉を発したその瞬間、それまで呻き声だった襖の向こうの声が、突如として絶叫に変わった。
「ア゛ーーーーッ! ア゛ァーーーーーーッ!」
「な、なんだ、こいつら一体?! やっぱり、最初からおかしな奴らだったのか?!」
Aがパニックに陥りそうになった、その時だった。更に不可解な現象が、彼の目の前で起こった。女性の頭部が、人間の目では到底追いきれないほどの猛烈な速さで、左右に激しく揺れ動き始めたのだ。あまりの速さに、首から上がぐにゃりとブレて見えるほどだった。
「ケケケッ……ケケケケケッ……」
女性は、甲高く、耳障りな声で笑い始めた。しかし、その顔は依然として真っ直ぐにAを見据えたままで、微動だにしない。Aは、全身を貫く恐怖で、今にも泣き出しそうだった。襖の向こうから途切れることなく響き渡る男性の断末魔のような叫び声と、目の前の女性の狂気に満ちた甲高い笑い声が、狭いリビングに不協和音となって木霊する。
「お、おい、A! 帰るぞ……!」
Gの震える声が、Aの耳に届いた。その声に我に返ったAは、半ば無我夢中で自分の荷物を掻き集め、必死の形相で玄関へと走った。幸い、女性が追いかけてくる気配はなかった。
玄関のドアノブに手をかけ、外へ飛び出すその瞬間、Aは魔が差したように思わず振り返ってしまった。そして、その行為を心の底から後悔した。開け放たれたリビングの扉の向こうに、あの女性が正座をし、こちらをじっと見つめているのが見えたのだ。そして、その女性の背後にある襖が、まるで生きているかのように、ゆっくりと、僅かに開いていくのが見えた。ぽっかりと開いた暗闇の向こう側を想像しただけで、Aは全身に鳥肌が立つのを感じた。
AとGは、文字通り死に物狂いで車へと駆け戻り、アクセルを床まで踏み込んで、その場を猛スピードで後にした。
翌日、Aは昨日の訪問先で、商品のデモンストレーションに使った機器一式を忘れてきてしまったことに気づいた。またあの恐怖の家に戻らなければならないのかと思うと、腹の底から嫌悪感がこみ上げてきたが、会社の備品である以上、取りに行かないわけにはいかない。AはGに懇願し、二人で再び昨日のアパートへと向かうことになった。
躊躇いながらも、意を決して問題の部屋のインターフォンを押そうとしたAは、ふとある異変に気がついた。
「Gさん、これ……」
Aが指差したのは、玄関の傍に設置されているガスメーターだった。そこには、本来、入居者がいない空き家であることを示すための黄色いタグが取り付けられていたのだ。驚いて電気メーターを確認すると、こちらも完全に停止しており、使用されている形跡は全くない。
「嘘だろ……」
Gが呆然と呟いた。
何度インターフォンを押しても、案の定、何の反応もない。苛立ちを隠せない様子のGは、管理会社へと電話をかけ、早口で事情をまくし立てた。数十分後、現場に到着した管理会社の担当者Kは、Gの説明を聞いても、しきりに首を傾げるばかりだった。しかし、Gの剣幕に押されたのか、「あくまで確認するだけですよ」と念を押した上で、恐る恐る部屋の鍵を開けた。
部屋の中は、信じたくないことだったが、完全に未入居の状態だった。昨日、AとGが体験した、あの赤ちゃんの写真がびっしりと貼られた異様なリビングも、カウンターキッチンも、どこにも存在しない。ただ、がらんとした空っぽの空間が広がるばかりだった。しかし、その部屋の隅に、ぽつんと一つだけ、昨日Aが忘れていった商品の機器が鎮座していた。それが、昨日の出来事が決して夢や幻ではなかったことを、残酷なまでに突きつけていた。
後日談は、さらに不気味な影を落とす。
先日の筆舌に尽くしがたい出来事に酷く怯えたAは、その後、会社に出勤してくることはなくなり、自宅の部屋に閉じこもってしまったらしい。しかし、彼は社内でもトップクラスの稼ぎ頭だったため、会社の上司たちが何度も説得にあたった。そして、「例の物件の近くには二度と行かないこと」「新築物件の営業は絶対に担当させないこと」を条件に、Aはひと月後、ようやく職場に復帰した。
ただ、彼はあの忌まわしい場所で出会ってしまった「何か」に、深く魅入られてしまっていたようだった。
Aが復帰してから一週間ほどが経過したある日のこと。Gは、Aをある古びたマンションの営業に降ろした。そこは、何の変哲もない、ごく普通の集合住宅だった。以前、他の営業マンが何度か訪問したことがあり、A自身も過去に何度かインターフォンを押したことのある、見慣れた物件のはずだった。
十数分後、Gの携帯電話が鳴った。発信者はAだった。
「お、もう決まったのか? さすがだな、Aの奴は」
Gは、わざと車両に乗っている他のメンバーにも聞こえるように、少し大げさにそう言ってから電話に出た。
「もしもし」
しかし、電話の向こうは無言だった。
「もしもし? Aか?」
数十秒の不気味な沈黙の後、受話器の向こうから、Aの悲鳴と、バタバタと何かを荒々しく争うような騒がしい音が聞こえてきた。そして、それらに混じって、あの時と同じような、低く、押し殺したような奇妙な声も微かに聞こえる。
「A?! どうしたんだ?! 何があった?!」
ただ事ではないと感じたGは、車をAのいるマンションへと急発進させながら、必死に呼びかけた。
『……Gさん……自分、もう……仕事、辞めさせて下さい……』
電話の向こうで、Aは泣きじゃくりながら、か細い声でそう言った。
「A? 一体何があったんだ? 説明してくれ!」
Gは、車両長として、できる限り冷静に問いかけた。
『また……また、出たんです……あいつが……』
Aが語った話を要約すると、こうだった。今度の部屋は、以前のような赤ちゃんのポスターも何もない、ごく普通の部屋だった。そして、応対してくれたのも、ごく普通の、穏やかそうな女性だった。話はトントン拍子に進み、契約の了承を得て、Gに電話をかけようとした、まさにその瞬間だった。目の前の女性の顔が、まるで粘土細工のようにぐにゃりと歪み、数秒後には、あの忌まわしい新築マンションで出会った、無表情な女の顔に変わっていたのだという。そして、その女は、こう言った。
「また会ったね」
そう言って、またあの時と同じ、甲高く、狂気に満ちた奇妙な笑い声で、ケラケラと笑い始めたそうだ。
Aは、その翌日から、二度と会社に姿を現すことはなかった。そして、彼はそのまま完全に失踪し、今日に至るまで、その行方は杳として知れない。
以上が、私がかつて勤めていた会社で、実しやかに噂されていた怪談話の顛末だ。実際、飛び込み営業の真っ最中にこの話を聞かされた時は、恐怖で全身の毛が逆立つ思いだったが、こうして文字に書き起こしてみると、その恐ろしさは半減してしまったかもしれない。
当時私にこの話をしてくれた上司は、「これはうちの本社であった実話なんだ」と真顔で言っていたが、その真偽の程は定かではない。もしかしたら、この業界では古くから語り継がれている、有名な都市伝説のようなものなのかもしれない、というのが私の個人的な見解だ。様々な場所へ出向くこの仕事柄、営業中に不可解な現象に遭遇したり、いわゆる「霊」のようなものを見てしまったりする人間は、決して少なくないようだから。
ただ、正直なところを言えば、当時ブラック企業同然だったその会社では、いつ出会うかもわからない幽霊よりも、その日の契約が一本も取れなかった時の上司の詰問の方が、よほど現実的な恐怖だったのだが……。
(了)
[出典:34 :営業会社の話(1/3):2011/01/19(水) 21:09:13 ID:iumaAo9x0]