これは、俺の職場での話だ。
先輩のことを思い出すと、今でも喉の奥がひやりと冷える。尊敬できる人だ。仕事は正確で、無理をしない。派手さはないが、最後まで投げ出さない。その積み重ねで、社内外から信頼を集めていた。正直に言えば、人としては俺よりずっとまともだ。
ただ、先輩には一つだけ、どうしても目を逸らせない癖があった。
異様なまでに「家族」を大切にしていることだ。
昼休みの雑談でも、話題は決まっている。奥さんの話、娘の話。弁当がどうだ、休みの日にどこへ行っただ。スマホのアルバムを開いて、写真を見せてくる。写っているのは風景や料理、公園の遊具や空だけだ。それでも先輩は嬉しそうに言う。「これな、娘が撮ったんだ」「この店、奥さんが見つけてさ」。
俺が入社した頃は、何の疑問も持たなかった。幸せな家庭を持つ人間の、よくある自慢話だと思っていた。
ある日、別の同僚に小声で言われた。
「あの人の家族の話、あんまり真に受けるなよ」。
理由を聞いて、背中に冷たいものが走った。
先輩の奥さんと娘は、数年前に亡くなっているらしい。事故だったそうだ。詳しいことは誰も話したがらなかった。ただ「そういうことになっている」とだけ聞かされた。
それ以来、職場には妙な空気が流れていた。誰も先輩の家族の話題に深入りしない。否定もしないし、訂正もしない。曖昧な相槌でやり過ごす。それが暗黙の了解になっていた。
写真を見せられるたび、俺は画面を凝視した。やはり人は写っていない。それなのに、ふと、誰かに見返された気がして、慌てて視線を逸らしたことがある。気のせいだと自分に言い聞かせた。
決定的だったのは、あの忘年会の夜だ。
会社の業績が良く、社長が珍しく派手な店を押さえた。高級料亭での忘年会。先輩は上機嫌で、普段は飲まない酒を重ねていた。終盤には立つのも危うく、顔は赤黒く腫れ上がっていた。
帰ろうとしたとき、先輩が言った。
「家族が待ってるからさ」。
誰も笑わなかった。社長が困った顔で宥めたが、先輩は譲らない。結局、酒を飲んでいない同僚が車を出し、俺が同乗することになった。
先輩は、店で包んでもらった料理を大事そうに抱えていた。途中で落としそうになっても、それだけは絶対に離さなかった。
深夜、先輩の家に着いた。街外れの一軒家。窓は暗く、生活の気配はない。俺は「誰もいない」と頭では分かっていた。
なのに、先輩は笑った。
「もう寝ちゃってるな」。
玄関に近づいた、その時だった。
二階から、軽い足音が駆け下りてくる。トタタタタという、小さな音。続いて、鍵が外れる音。
扉が開いた。
そこには誰もいなかった。
「お、起きてたか」
先輩はそう言って、家の中に声をかけた。
「ほら、土産だぞ」。
家の奥から、かすかに笑い声のような音がした気がした。俺は同僚と目を合わせたが、どちらも何も言えなかった。
先輩は迷いなく中へ入っていった。闇に吸い込まれるように。
車に戻った同僚の手は震えていた。俺も同じだった。
「なあ……」
同僚が言いかけて、口をつぐんだ。
それから数年が経った。
先輩は今も同じように家族の話をする。写真を見せる。俺は相槌を打つ。気づいたら、俺は「娘さん」「奥さん」と、自然に敬称を付けていた。
最近、先輩の話が妙に具体的に聞こえる。休日の出来事が、俺の知らないはずの風景と重なることがある。聞いた覚えのないはずなのに、懐かしい。
先輩の家の前を通った夜、二階に小さな明かりが灯っているのを見た。誰も住んでいないはずなのに。そう思った瞬間、「住んでいない」という考えの方が、間違っている気がした。
休憩時間、先輩が言った。
「今度、うち来るか」。
俺は断ろうとして、言葉に詰まった。
なぜか、行かなければならない気がした。
あの夜、玄関を開けたのは誰だったのか。
その問いは、もう俺だけのものじゃない。
もしかしたら、俺ももう、あの家族の一員として数えられているのかもしれない。
そう思った瞬間、喉の奥がひやりと冷えた。
(了)