これは、予備校時代の友人から聞いた話だ。
友人には、昔から妙に面倒見のいいところがあった。後輩が困っていると放っておけない性格で、卒業して何年も経ってからも、たまに昔の知り合いと連絡を取り合っていた。
その友人が、ある日、かなり沈んだ声で電話をかけてきた。
「タケ、覚えてるか。」
名前だけは聞いたことがあった。友人の二つ下の後輩で、予備校時代に何度か同じ飲み会に来ていた男だという。身長が百八十五センチほどあり、学生の頃は体格もよく、声も大きく、どこにいても目立つタイプだったらしい。
そのタケが、ここ二年ほどで別人のようになった。
親が亡くなり、職場で揉め、付き合っていた相手とも別れた。重なる時は重なるもので、しばらくして職も失った。友人は、人づてに「相当まいっているらしい」と聞いていたが、直接会う機会はなかった。
久しぶりにタケから連絡が来たのは、梅雨の終わり頃だった。
「会って話したいんです。」
声が小さすぎて、最初は誰か分からなかったそうだ。
待ち合わせは、タケの住む町の駅前だった。友人が改札を出ると、柱の陰に、痩せた男が立っていた。顔を見て、ようやくタケだと分かったという。
昔は八十キロ近くあった体が、五十キロ台まで落ちていた。頬はこけ、首筋だけが不自然に長く見えた。目だけが妙に動いていて、通行人の顔、駅前の時計、タクシー乗り場、植え込みの中まで、落ち着きなく追っていた。
「久しぶりだな。」
友人が声をかけると、タケは一瞬だけ笑った。
「ここではやめましょう。見られてるんで。」
その時点で、友人は嫌な予感がしたという。
二人は昼間から開いている居酒屋に入った。まだ客の少ない時間帯で、店内には厨房の音と、テレビの野球中継だけが流れていた。
ビールを頼んでも、タケはほとんど口をつけなかった。かわりに、元交際相手の話をし始めた。職場で嘘を流されたこと。自分が彼女につきまとっているように仕立てられたこと。周囲がそれを信じ、仕事にいられなくなったこと。
そこまでは、まだ愚痴として聞けた。
だが、話は少しずつ変な方向へ曲がっていった。
再就職の面接に落ちるのも、その女が手を回している。外へ出ると、決まった人間が決まった場所にいる。自分がどこを歩くか、先に知られている。道を変えても、ちゃんと別の誰かが置かれている。
「俺が店に入ったら、向こうにも連絡が行くんです。」
タケは、そう言って店の入口を見た。
友人は、なるべく普通の声で言った。
「一度、病院に行った方がいいんじゃないか。」
タケは箸を持ったまま、顔だけをこちらに向けた。
「それも言われると思ってました。」
「いや、責めてるんじゃなくて。」
「違うんです。そう言わせるところまで、あっちは考えてるんです。」
それ以上は、何を言っても通じなかった。
店を出たあと、友人はタケのアパートへ向かうことになった。タケが「部屋で飲み直しましょう」と言ったのだ。正直、断りたかったらしい。しかし、その時のタケはあまりに頼りなく、ひとりにするのも怖かったという。
駅前の大通りを外れ、住宅地へ入る。午後の明るい時間だった。雨上がりで、歩道の隅にはまだ水たまりが残っていた。
しばらく歩いたところで、タケが急に足を止めた。
「ここです。」
何が、と聞く前に、タケは低い声で続けた。
「ここを通る時、いつも人が多いんです。」
友人が周囲を見ると、確かに人がいた。花壇の手入れをしている作業員が二人。車椅子の人と、その付き添いらしい人たちが、十数人ほど信号待ちをしていた。少し離れた場所では、小学生が二人、傘で水たまりをつついていた。
ただの生活の風景だった。そう思おうとした。
「多いって、これくらい普通だろ。」
「普通に見えるようにしてるんです。」
タケは信号の向こうを見ていた。
「あと、この角では、必ず〇〇運送のトラックが来ます。」
言い終わるか終わらないかのうちに、交差点の右から白いトラックが出てきた。側面には、タケが口にした会社名が青い文字で入っていた。
友人は何も言えなかった。
トラックが通ること自体は、珍しいことではない。大きな通りだ。配送車などいくらでも走っている。たまたま社名が合っただけだ。そう考えれば済む。
しかし、タケが言った瞬間に来たことだけが、どうにも引っかかった。

タケは、ほら、とも言わなかった。勝ち誇るような顔もしなかった。ただ少し目を伏せて、歩き出した。
アパートは古い二階建てだった。外階段を上がり、端の部屋に入る。六畳一間に小さな台所。カーテンは半分閉まっていて、部屋の中は昼なのに薄暗かった。床にはコンビニの袋や求人誌が散らばっていたが、ゴミ屋敷というほどではない。ただ、生活の全部が途中で止まっているような感じがしたという。
友人が缶ビールを開けると、タケは突然、人差し指を立てた。
「聞こえますか。」
最初は冷蔵庫の音しか聞こえなかった。だが、黙っているうちに、どこか遠くからピアノの音がした。
同じところを何度も間違えているような、短い練習曲だった。
「ね。」
タケは笑わなかった。
「これ、俺が部屋にいる時だけなんです。寝ようとすると始まる。外に出ると止まる。引っ越そうとすると、近所で工事が始まる。内見の予約を入れると、不動産屋から折り返しが来ない。逃げ道を、全部ふさいでるんです。」
友人は、何も返せなかった。
ピアノの音は、確かに聞こえていた。幻聴ではなかった。だからこそ、余計に嫌だった。
その日は、適当なところで切り上げた。帰り際、タケは玄関で言った。
「先輩も、気をつけてください。」
「何を。」
「分かるようになります。」
その言い方が嫌だったという。脅しではない。忠告でもない。すでに同じ場所にいる人間に、少し遅れて気づくことを教えているような声だった。
帰宅してから、友人は自分でも嫌になるくらい、タケの町のことを調べた。
交差点の近くには、福祉施設があった。日中、利用者が職員と一緒に散歩することは珍しくないらしい。花壇の手入れは市の委託業者が定期的にしている。〇〇運送の営業所も、少し先の通り沿いにあった。あの道をトラックが通るのは、むしろ当然だった。
ピアノについても、隣の棟ではなく、道路を挟んだ向かい側にピアノ教室があることが分かった。夕方になると子供たちが練習する。聞こえてもおかしくない。
全部、説明がついた。
それで安心するはずだった。
だが、友人はその夜、なかなか眠れなかったという。
説明がついたのは、それらがそこにある理由だけだった。タケが口にした直後に、なぜそれが揃ったのかまでは、説明できなかった。
もちろん、それも偶然だと言えば終わる。
ただ、その「偶然だと言えば終わる」という考え方が、妙に薄っぺらく感じられた。
数日後、友人は近所のスーパーへ買い物に出た。
タケの町とは電車で四十分ほど離れている。何の関係もない住宅街だ。見慣れた道で、見慣れた店へ向かっただけだった。
交差点に差しかかった時、歩道の端に作業服の男がしゃがんでいるのが見えた。
最初は、花を植えているのだと思った。だが近づくと、男は花壇から枯れていない花を一本ずつ抜いていた。根についた土を払うでもなく、抜いた花を横の袋へ入れている。
その向こうの信号には、車椅子の人が二人いた。付き添いの人が三人。タケの町で見た一団より、ずっと少ない。だから偶然だと思えた。
思えたはずだった。
信号が青になった時、背後からトラックのエンジン音がした。
友人は振り向かなかった。振り向かなければ違う会社かもしれない。違う会社なら、ただの配送車だ。そう考えながら、スーパーの入口まで歩いた。
だが、自動ドアのガラスに、白い車体が映った。
会社名は、全部は読めなかった。ガラスの反射で、最初の二文字だけが見えた。タケが言っていた会社と同じ二文字だった。
友人は買うものを忘れ、適当に牛乳と卵だけをかごに入れて帰った。
部屋に戻り、冷蔵庫を開けた時だった。
どこからか、ピアノの音がした。
最初はテレビかと思った。つけていなかった。隣室かと思った。隣は昼間から仕事で留守のはずだった。窓を開けても、どの家から聞こえているのか分からない。
ただ、音だけがあった。
短い練習曲だった。
同じところで、何度も間違えていた。
友人はそのまま台所に立って、しばらく動けなかった。三年住んで、一度も聞いたことのない音だった。たまたま近所の誰かがピアノを始めただけかもしれない。以前から聞こえていたのに、気にしていなかっただけかもしれない。
そう考えるたびに、自分の声ではなく、タケの声で返ってきた。
「普通に見えるようにしてるんです。」
その夜、友人は心療内科の予約サイトを開いた。タケのためではない。自分のためだった。
名前を入力し、生年月日を入力し、住所を入力した。
最後に、最寄り駅を書く欄があった。
駅名を打ち込んだところで、外のピアノが止まった。
代わりに、階下で車のブレーキ音がした。
窓の隙間から外を見ると、白いトラックがアパートの前で停まっていた。荷物を降ろす様子はない。運転席の男は、こちらを見ていなかった。ただ、ハンドルに手を置いたまま、じっと前を向いていた。
車体の横に書かれた会社名は、街灯の陰で読めなかった。
友人は予約を完了した。
翌朝、確認メールが届いていた。
件名には、予約日時と病院名が表示されていた。その下に、差出人のアドレスがあった。
迷惑メールでも、広告でもない。病院からの自動返信だ。
ただ、アドレスの中に、あの運送会社と同じ二文字が入っていた。
それを見た瞬間、友人は予約をキャンセルした。
それから彼は、タケと連絡を取っていない。
一度だけ、こちらから「その後どうしている」と聞いたことがある。
友人は少し黙ってから、「分からない」と答えた。
タケのことが分からない、という意味ではなかったと思う。
その話を聞いた帰り道、私は駅前の交差点で信号待ちをした。歩道の花壇には、軍手をした作業員が一人しゃがんでいた。反対側には、車椅子の老人と付き添いの女性がいた。
そこまでは、別に珍しくもなかった。
ただ、青信号に変わった時、背後からトラックの音が近づいてきた。
私は振り向かなかった。
振り向かなければ、まだ偶然のままでいられる気がした。
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