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短編 r+ ヒトコワ・ほんとに怖いのは人間 不動産・物件の怖い話

幸せになれましたか rw+8,026-0109

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学生時代、まだ日々の現実がどこか仮のように思えていた頃の話だ。

秋も深まり、講義帰りの道すがら、冷えた風に肩をすぼめるようになっていたある日、不動産屋から一本の電話が入った。俺が住んでいたアパートが二重契約になっていたという。冗談のようだが事実だった。書類上の不備は向こうにあり、俺に落ち度はない。それでも裁判に発展し、期限内に退去する必要があるという結論だけは変わらなかった。

菓子折りを抱えた営業が何度も頭を下げ、必ず条件に合う物件を用意すると繰り返した。しかし期日が迫っても話は進まず、最後に提示されたのは、明らかに俺の身分や予算には不釣り合いな賃貸マンションだった。

築年数は古いが、2Kで水回りは改装済み。家賃も破格だった。不動産屋は一ヶ月だけの仮住まいだからと念を押すように言った。事故物件ではないかと聞くと、即座に否定された。ただ一つ、「夜中の外出は控えてください」とだけ言われた。

理由を聞いても、曖昧に笑って話題を変えられた。

入居して数日で、違和感は明確な形を取り始めた。

まず、自分の階に自分しか住んでいない。郵便受けを見れば、他の階はチラシや郵便物で膨らんでいるのに、俺のフロアだけが空白だった。管理ミスにしては出来すぎている。

夜、エレベーターを降りた瞬間、猫の鳴き声が響いた。声は非常ボックスの奥から聞こえる。扉を開けても、そこには消火器しかなかった。鳴き声は止み、代わりに、誰かが息を潜めたような静けさが残った。

二、三日に一度、天井裏から「ズリ……ズリ……」という音がした。何かが這っている。だが、上の階に人の気配はない。音は必ず、俺が眠りに落ちかけた頃に始まった。

廊下では、姿の見えないヒールの音が昼夜を問わず反響した。バスルームには、使った覚えのない水が張られていることがあった。帰宅すると、濃すぎる香水の匂いが部屋に残っていることもあった。

週末の午前三時、マンションの外から、生臭い足音が近づいてくる。ベチャ……ベチャ……と、何かを引きずるような音。それに重なるように、階段の方から女の笑い声が聞こえた。楽しそうでも、狂気じみてもいない。ただ、笑っているという事実だけが、妙に生々しかった。

電話をしていると、回線が途切れ、どこかで唸るような声が混じる。言葉にはならないが、耳に残る。

それでも俺は、直接何かをされたわけではないと自分に言い聞かせていた。だが、その認識は、ある夜を境に崩れた。

深夜、トイレに立ったとき、玄関に老婆がしゃがみ込んでいた。オートロックのはずなのに、鍵は開いていた。

「お爺さんを待ってるんです。ここにいますよね」

何度否定しても、彼女は動かなかった。警察を呼び、連れ出された直後、ドアが激しく叩かれた。

「お爺さんをかえせーーーー!!」

ドアスコープ越しに見えた顔は、怒りとも悲しみとも違う、何かを確認しようとするような表情だった。

それから数日後、引っ越しの準備を進めていた午後、玄関前に小さな段ボール箱が置かれていた。中には、木彫りの人形がひとつ。背面に殴り書きで『幸せになれる人形』と書かれていた。

嫌な予感がして、箱を外に戻した。すると、また物音がする。箱の上に紙切れが置かれていた。

『幸せになれましたか?』

その夜、ノックが始まった。無視していると、音は執拗になった。ドアに近づいた瞬間、理由もなく、全身が拒絶反応を起こした。

ドアスコープを覗くと、痩せた若い女が立っていた。包帯だらけの手を胸に抱え、血走った目でこちらを覗き込んでくる。

「幸せになれたよね?」

その言葉を、彼女は一時間以上、繰り返し続けた。

声が止んだ後も、しばらく動けなかった。やがて恐る恐る覗くと、誰もいなかった。箱も、人形も消えていた。

二日後、俺は部屋を出た。

その後、別のアパートで生活は続いた。何事も起こらない。だが、時折、荷物の奥から木屑の匂いがすることがある。見覚えのない紙切れが、机の上に置かれていることもある。

そこには決まって、同じ文字が書かれている。

『幸せになれましたか』

問いに答えた記憶はない。だが、否定した覚えもなかった。

今でも、ときどき考える。
あの問いは、俺に向けられたものだったのか。
それとも、俺を通して、別の誰かに向けられていたのか。

考えているうちに、ふと気づく。
最近、自分が幸せかどうかを、もう判断できなくなっていることに。

それでも、問いは続く。

静かに。
確実に。

(了)

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