親父の実家は、俺の家から車で二時間もかからない。
山に囲まれた寒村で、主に米と野菜を作ってる農家だった。
小さな谷あいに、ぽつんと家があって、道も狭いしバスも来ない。
けれど俺は、あの空気が好きだった。
高校に入って原付免許を取ってから、長期休みにひとりでよく通った。
山道をバイクで走るのが気持ちよかったし、何より祖父母が本当に嬉しそうに迎えてくれたのが、こっちまで嬉しくてさ。
なのに——最後にあの家へ行ったのは、高三になる直前の春休みだった。
それ以来、一度も足を踏み入れていない。いや、踏み入れられない。
理由は、いまだに人には言えずにいる。
その春の日も、やけに天気がよくて。
朝から気温は上がらなかったけど、空が澄んでいて、バイクで走るには最適だった。
昼すぎに祖父母の家に着いて、広縁に座って湯呑みを手にしながら、しばらくぼーっとしていた。
ああ、今年もまた来れてよかった。そう思ってた、そのとき。
「ぽぽ……ぽぽっぽ、ぽ、ぽっ……」
妙な音が聞こえたんだ。
カラスでもないし、機械でもない。
どこか人間っぽい、けれど言葉にはならない、音のような……声のようなもの。
空耳かと思ったけど、次の瞬間、生垣の上に何かがスッと動いた。
麦わら帽子だった。
その帽子が、まるで滑るように横移動していた。
そのすぐ後、垣根の切れ目から、白いワンピースを着た女が姿を現した。
俺は一瞬、息が止まった。
あの垣根は、間違いなく二メートル以上はある。
その女の頭は、余裕でそれを越えていた。
女が通り過ぎると、帽子も音も、すうっと消えた。
それでもしばらく心臓が変な音を立ててた。
なんだったんだ、あれ。
背の高い女が厚底でも履いてたのか。
それとも、背の高い男が女装してた……?
気味は悪いけど、まあ田舎じゃたまに変な人も歩いてるし、ってそのときは自分に言い聞かせてた。
居間に戻って、その話を祖父母にしてみた。
最初は「ふーん」と聞き流していた祖父が、「垣根より背が高かった」と言った瞬間、ぴたりと動きを止めた。
あれほど無表情になる祖父を見たのは、初めてだった。
そして、怒りをこらえたような表情で、「いつ」「どこで」「どれくらい高かった」と矢継ぎ早に質問してきた。
俺が答えると、祖父は無言で立ち上がり、廊下の電話へ向かった。
引き戸を閉めて話していたから内容は聞き取れなかったが、ただならぬ雰囲気だった。
祖母は俺の隣で、微かに震えていた。
その震え方が、生まれて初めて見る“本気の恐怖”に見えて、こっちまで身体が冷えてきた。
やがて祖父が戻ってきて、こう言った。
「今日は泊まっていけ。いや、帰しちゃいけなくなった」
言い方も、声も、完全に真剣だった。
さっきまでの陽気な雰囲気が、完全に消えていた。
「ばあさん、後は頼む。六波羅さんを迎えに行ってくる」
祖父はそう言って、軽トラックに乗って出て行った。
その後、祖母から聞いた話は、耳を疑うような内容だった。
——この村には「八尺様(はっしゃくさま)」という“モノ”が棲んでいる。
白い服を着た異常に背の高い女の姿で現れ、「ぽぽぽ」という声を発する。
年齢も服装も見る人によって違うらしいが、共通して“女で背が高く、声がおかしい”のだという。
一度魅入られると、数日のうちに死ぬ。
実際、十五年前にも犠牲が出ているという。
八尺様はこの地域を出ることができない。
出られないよう、村の境界四ヶ所に“地蔵”が建てられている。
地蔵が道を封じるように配置されていて、それによって外へは出られない。
けれど、一度魅入られたら、村にいる限りは逃げられない。
今の俺が、まさにその状態だと、祖母は言った。
六波羅さんと呼ばれる老婆が祖父に連れられてやってきた。
小さな体に不釣り合いなほどの気迫を放つ人だった。
「今はこれを持ってなさい」
そう言って渡された御札。
それは妙に温かくて、湿気のようなものすら感じた。
祖父と六波羅さんは、二階の一室を封じる準備に取り掛かり、俺は祖母と一緒にいた。
トイレに行くときも、祖母がずっと付いてくる。
ドアも完全には閉めさせてくれなかった。
そうして準備された部屋に入ると、四隅に盛塩。
窓という窓に新聞紙が貼られ、その上に御札。
中央には木の箱。上には小さな仏像。
そして、子供用の“おまる”が二つ。
「明日七時までは、絶対に出るな。誰に呼ばれても、どんな声がしても、絶対にだ」
祖父の、凍るような声が、今も耳に残っている。
夜が更けて、布団に包まって震えながらテレビを見ていた。
気がついたら寝ていて、目が覚めたのは午前一時すぎ。
そのとき——
コツ、コツ……
窓を叩く音。
明らかに、手の音だった。
「おーい、大丈夫か」
祖父の声が聞こえた。
けれど、即座に違和感が走った。
それは祖父の声じゃない。
声のかたちだけを真似た、異物のようなものだった。
御札を握り締め、仏像の前に座り込むと、「ぽぽ……ぽぽっ」と、あの声が始まった。
窓がトントン、と叩かれる。
盛塩は黒く変色していた。
そのまま、朝まで震えていた。
目を覚ますと、テレビは朝のニュースを映していた。
時間は七時過ぎ。
窓の音も、声も、消えていた。
ドアを開けると、祖母と六波羅さんが、泣きながら迎えてくれた。
親父も来ていた。
そして、九人乗りのバンに押し込まれ、親父と祖父の運転する車に挟まれながら、村を出る車列が始まった。
前後左右、すべてを血縁者で囲む形。
俺を中心にして、八尺様の目をごまかすためだと聞いた。
走り出してしばらくすると、また聞こえた。
「ぽっぽぽ……ぽ、ぽっ……」
白いワンピースが、窓のすぐ外に並走していた。
大股で追いついてくるのが分かった。
頭を下げて覗き込もうとする仕草を見て、声が出た。
「見るなッ!」
誰かが怒鳴った。
目を閉じ、御札を握る。
コツ、コツ、コツ……
窓が叩かれる音がする。
音だけが、嫌というほど届いてきた。
そのとき、六波羅さんが念仏を強め、ふっと空気が変わった。
「うまく抜けた」
車内に、安堵の声が広がった。
あれから十年以上が経った。
祖父は亡くなり、実家にも帰っていない。
ずっと連絡を避けていたが、最近、祖母から電話があった。
「……地蔵様が壊されたんよ。お前の家に通じる道の、あれだけが」
それを聞いて、背筋が凍った。
なぜか、今でも御札は捨てられず、引き出しの奥にしまってある。
「ぽぽぽ……」という声が、もしまた聞こえたら。
あの夜の、窓の向こうを、思い出す……
[出典:908 : 2008/08/26(火) 09:45:56 ID:VFtYjtRn0]