話しても、たぶん誰も信じないと思う。だから、最初から信じなくていい。
これは俺に起きた出来事だが、理解しようとしなくていい。ただ、読んだあとに少しだけ、周囲の気配が気になるようになれば、それで十分だ。
二年前の秋、俺は町役場に臨時職員として配属された。
部署の中で俺が一番若く、年の近い人間はいなかった。会話は仕事の連絡だけ。昼休みも一人で弁当を食べていた。誰も困らないし、誰も気に留めない。存在していないのと大差なかった。
ある中年の職員だけが、やたらと俺に絡んできた。「若いのに覇気がない」「その歳でそれは終わってる」。最初は冗談のつもりだったのだろうが、毎日続くと冗談では済まない。周囲は見て見ぬふりをした。
俺は何も言わず、ある日そのまま辞めた。
辞めてから二週間、ほとんど何もしていない。テレビもネットも見なかった。昼夜の区別も曖昧になり、気づくと日が傾いている。
ある午後、理由もなく外に出た。歩いているうちに、いつの間にか小学校の裏手にある山の前に立っていた。
子供の頃、よく遊んだ山だ。エアガンを持ち込んで、友達と撃ち合った。頂上には小さな社があったが、扉は固く閉ざされていた。青く塗られた鉄製で、石を投げても、棒で叩いても、びくともしなかった。
その扉が、開いていた。
誰かがこじ開けた様子はない。錆びも歪みもなく、最初からそうだったかのように、自然に開いている。
中は妙に整っていた。落ち葉も埃もなく、掃除された直後のような静けさがあった。
石段に腰を下ろして休んでいると、違和感に気づいた。
あたたかい。十月の山の上とは思えないぬるさが、肌にまとわりつく。風もないのに、空気だけが重い。
その時、手に持っていた携帯の画面が暗転した。電源が落ちたと思った次の瞬間、画面に映ったのは、俺の背後だった。
社の奥に、立っていた。
女だった。だが、人だとは思えなかった。異様に背が高く、黒とも灰ともつかない着物をまとっている。顔は白く、髪は真っ黒で、風がないのにふわふわと揺れていた。

画面の中で、その女が滑るように近づいてくる。
逃げようとしたが、身体が動かない。足の裏が石段に縫い止められたようだった。
あと三歩。
あと二歩。
あと一歩。
女はゆっくりと屈み、画面いっぱいに顔を映した。整った顔立ちだった。だが、目だけが異様だった。白目がなく、すべてが黒かった。画面越しなのに、息の熱が伝わってくる気がした。
女が手を伸ばし、携帯を掴んだ。
引っ張られる。俺は無意識に必死で握っていたらしく、なかなか離れない。女の動きが、ほんの一瞬だけ荒くなった。
その瞬間、何かが切れた。
叫び声を上げながら、俺は山を転げ落ちた。木や石にぶつかり、足をくじき、笹で手を切りながら、転がるように逃げた。
気づいたときには、自宅の玄関だった。全身泥だらけで、息が上がっていた。
ズボンのポケットに手を入れると、携帯があった。いつ戻ったのか、分からない。
それ以降、あの山には近づいていない。
何事もなかったように時間が過ぎた。
去年の夏、祖母の三回忌で寺に集まった。
本堂に入ろうとしたとき、住職が俺を見て、動きを止めた。
「君は、外で待っていなさい」
理由は言わなかった。視線だけが、妙に距離を取っていた。
法要が終わり、親戚で食事をしていると、住職がぽつりと言った。
「山口さんのところは……覚悟しておいたほうがいい」
誰も返事ができなかった。
後で、住職は俺だけを呼び止めた。詳しい説明はなかった。ただ、あの山の名前を口にしただけだ。
それ以来、周囲の態度が少しずつ変わった。
誰も何も言わない。だが、踏み込まれない。線を引かれた感じがする。
紹介の話も、冗談も、なぜか俺のところで止まる。
大きな異変は起きていない。
ただ、夜中にふと目が覚めたとき、部屋の隅が気になる。
視界の端で、黒いものが揺れた気がする。
確認しようとすると、何もない。
それでも、目を閉じると、あのぬるい空気だけが、はっきりと思い出される。
[出典:152 :本当にあった怖い名無し:2014/04/20(日) 01:58:28.80 ID:CS0vbw2M0.net]