予備自衛官補として入った最初の夏だった。
湿気が肌にまとわりつき、制服の内側で汗が乾かない。大学の講義を終えて電車を乗り継ぎ、郊外の駐屯地に入るたび、日常と切り離された空気に包まれた。
朝六時、スピーカーからラッパが鳴る。一瞬で叩き起こされる。寝汗の残る迷彩服に腕を通し、一分でも遅れれば怒鳴られ、二分なら全体で腕立て伏せだ。理不尽ではない。ただ、徹底されているだけだ。
相部屋は白く無機質で、二段ベッドが壁際に並ぶ。そのときは五人。ひとつだけ空きがあった。誰も使っていないはずの下段だ。
その夜も消灯と同時に眠りに落ちた。訓練の疲労で、夢すら見ない深い眠りだった。
次に目を開けたとき、ラッパが鳴った気がした。
身体が先に反応した。起き上がり、迷彩服に手を伸ばす。だが部屋は闇のまま、静まり返っている。誰も起きていない。耳を澄ましても、ラッパの残響はない。
錯覚か。
そう思った瞬間、右斜め前、二つ先のベッドで何かが動いた。
人影だった。
ゆっくり立ち上がり、布を丁寧に畳んでいる。無駄のない動き。訓練された手つき。暗闇の中なのに、その動作がはっきりと見えた。
そこは空いているはずのベッドだった。
半ば反射で口が動いた。
「おはようございます」
返事はない。影は動きを止めない。ただ黙々と布を整えている。
そこで気づいた。眼鏡をかけていない。
裸眼では隣の顔すら判別できない視力だ。それなのに、二つ先のベッドのTシャツの皺まで見えている。暗闇の中で、輪郭も指の動きも、異様なほど鮮明だった。
見えていること自体が、おかしい。
腕時計のライトを点ける。まだ五時前。ラッパが鳴るには早すぎる。
光が一瞬、部屋をかすめた。だが二つ先のベッドには、誰もいなかった。
布も、動きも、何もない。ただ空のマットレスが沈黙している。
慌てて毛布を頭まで引き上げた。目を閉じても、さっきの光景が裏側に貼りついている。心臓の音だけがやけに大きい。
しばらくして、本物のラッパが鳴った。今度は確かに鳴っている。部屋に光が差し、仲間が一斉に起き上がる。いつもの朝だった。
訓練の合間、リーダー格の自衛官に昨夜のことを話した。
「空きベッドで誰かが布を畳んでたんです」
男は手を止め、少しだけ笑った。
「やっぱり見たか」
それだけ言って、また靴を磨き始めた。
「ここ、昔いろいろあったからな」
詳しくは語らない。ただ三階の窓に後付けの鉄格子があること、使われていない隣室があること、それだけを淡々と挙げた。
「朝礼前に動くやつは、だいたい畳んでるらしい」
冗談の調子でもなく、脅すでもなく、ただ事実のように。
その夜から、消灯後に目を閉じるのが難しくなった。ラッパが鳴る前のわずかな静寂が、妙に長く感じる。
やがて訓練に通えなくなり、心療内科に通いながら任期を終えた。
今でも、朝方にふと目が覚めることがある。ラッパは鳴っていない。それでも身体が起き上がりかける。
そして、ときどき思う。
あのとき俺が「おはようございます」と声をかけた相手は、本当に空きベッドの主だったのか。
それとも。
あの部屋で、空いていたのは――俺のベッドの方だったのか。
[出典:179 :1:2019/10/20(日) 10:29:43 ID:3kMAWXUP0.net]