今でも、あのときのイヤホンの手触りを思い出す。
硬くて冷たい、金属の先端が指に当たる感覚。
二十年以上たった今でも、あの瞬間の温度だけは消えない。
小学生の頃、理科室の掃除当番だった。
理科室はほこりっぽく、石灰の匂いがいつも漂っていた。
薬品棚には白い粉が詰まった瓶が並び、天井の蛍光灯は片方がちらついていた。
昼休みの終わりごろになると、僕たちはその薄暗い空間で遊んだ。
理由なんてなかった。そこには“秘密”があった。子どもにとってそれだけで十分だった。
ある日、準備室の扉が開いているのに気がついた。
普段は鍵がかかっていて、生徒の立ち入りは禁止されていた。
そこを使っていたのは、定年間近の穏やかな先生だった。
丸い背中と白い髪。怒鳴ったところを見たことがなかった。
僕はただ、何気なくドアを押した。
中は狭く、窓のない部屋だった。
壁際に古い机、その上に小さなブラウン管テレビ。
画面は消えていて、イヤホンが刺さっていた。
その“イヤホンが刺さったまま”という光景が妙に引っかかった。
なぜか、それを利用してやろうと思った。
理由なんてない。ただ、いたずらの衝動だけだった。
リモコンを取って、テレビの電源を入れた。
音量を最大まで上げた。
イヤホンから漏れる音が、部屋の空気を震わせた。
怒鳴り声。ドラマの俳優が叫んでいた。
割れた音が耳の奥で弾けて、心臓が一瞬止まったような気がした。
慌てて電源を切り、イヤホンを抜いた。
つまり、誰かが次に電源を入れたら——爆音が響く仕組み。
それを想像した瞬間、ぞくっとした。笑ってしまいそうになった。
子どもの残酷な好奇心。
誰にも見つからないまま、僕はそっとドアを閉めた。
その日の午後、教室に戻ってからも心臓が早鐘を打っていた。
“どうなるだろう”という期待と不安が交互に押し寄せた。
けれど、授業が終わる頃になって、廊下がざわついた。
理科の先生が倒れた——そんな声が聞こえた。
放課後、噂はすぐに広がった。
準備室で先生が意識を失っていた。
駆けつけた先生たちが見たのは、爆音で鳴り響くテレビ。
音を消すときにはもう、手遅れだった。
心臓が悪かったらしい。
体がリモコンの上に乗っていて、音量が勝手に上がったのだろう——
そう結論づけられた。
誰も、いたずらを疑わなかった。
僕も何も言わなかった。言えるはずがなかった。
それからの数年、理科室に入ることはなかった。
あのテレビも、いつの間にか姿を消した。
年月が過ぎ、僕は教師になった。
異動で配属された中学校で、初めて担当した理科室に入ったとき、
壁の色、窓の位置、棚の錆び方が、あの頃の学校と酷似していた。
一瞬、息が詰まった。
準備室の扉は開いていた。
中に足を踏み入れると、懐かしい匂いがした。
薬品と古い木材の混じった匂い。
そして、奥の机の上に、小さなテレビが置かれていた。
今どき珍しいブラウン管。十四インチほど。
画面は黒く沈んでいる。
その側面から、イヤホンが一本、垂れ下がっていた。
手を伸ばすと、指先が震えた。
その金属端子の冷たさ——まったく同じだった。
いや、そんなはずはない。別の学校、別の機材だ。
でも、その瞬間、耳の奥で音がした。
誰かの怒鳴り声。
ドラマの台詞のような、割れた声。
反射的に手を引いたが、
もうリモコンは僕の手の中にあった。
握った覚えなどないのに、確かに持っていた。
ボタンの一つが、勝手に押し込まれる。
テレビが点いた。
映像はなく、真っ黒な画面の中で“ノイズ”だけが鳴った。
爆音。
白い霧のような砂嵐の向こうに、何かの影が映っていた。
丸い背中。白髪。
イヤホンをして、静かに笑っていた。
逃げようとしたが、足が動かなかった。
音の洪水の中で、ふと気づいた。
僕の耳にもイヤホンが差し込まれている。
いつの間に。
耳の奥で、声が囁いた。
「——次は、君の番だよ」
気づくと、手がリモコンを握ったまま、音量を上げていた。
ボリュームの数字が上がるたび、心臓の鼓動が重なっていく。
やめたいのに、止まらない。
笑っている。僕が。
画面の中の影も、同じように笑っていた。
[出典:546 :2016/05/04(水)19:26:53 ID:mbS]