子供の頃の記憶というのは、妙に鮮明な断片と、すっぽり抜け落ちた闇のような部分とでできている。
その中で、どうしても忘れられない出来事がある。何十年経った今でも、あのときの家の湿った匂いや、障子越しに差し込む夕暮れの赤が、夢の底から浮かび上がるように思い出される。
両親は共働きで、朝早くから夜遅くまで家には居なかった。
だから幼い俺の世話をしてくれていたのは、近所に住む《佐々間のおばちゃん》だった。頭が少し弱く、文字を読むのもおぼつかない人だったらしい。けれど、俺にとっては毎日一緒にいてくれる大人で、学校から帰ると迎えてくれる人間だった。畑で採れた野菜を抱えてやって来ては、台所でぎこちなく包丁を振るい、煮すぎてぐずぐずになった味噌汁をよそってくれる。母の料理と比べると雑だったが、当時の俺はそれをむしろ安心の味と感じていた。
おばちゃんの役目は、俺の面倒を見ることに加えて、家事全般、そして寝たきりだった祖母の介護だった。
祖母は慢性的な病で入退院を繰り返しており、家にいる時も大抵は布団に横たわっていた。細い指先と、いつも咳をこらえるような笑い方を、今でも覚えている。
その日、俺が学校から帰ってくると、いつもいるはずのおばちゃんの姿がなかった。
代わりに、布団に沈んでいるはずの祖母が珍しく居間に座って湯呑を持っていた。
驚いて声を掛けると、祖母は薄く笑い、「今日はまだ来ていないよ」とだけ答えた。
それから俺を二階に押し込み、こう言ったのだ。
「今日は誰が来ても降りてきちゃいけないよ」
そう言って、菓子とポンジュースを渡し、口に人差し指を当てて「シー」とした。
意味が分からず尋ねると、祖母は困ったような顔をして、しかし繰り返した。
「そうだよ。誰が来ても」
それだけ言って襖を閉めた。
二階のこたつに潜り込んでテレビをつけたが、胸の奥がざわざわして、画面の音は耳を通り抜けていくだけだった。
外は曇りで、部屋は昼間でも薄暗かった。時計の針が六時に近づいた頃、階下から声がした。
聞き間違えるはずのない、佐々間のおばちゃんの声だった。
「洋介君はまだ帰ってきておらんかねえ」
心臓が跳ねた。降りていこうか迷ったが、祖母の言葉を思い出し、布団の中で息をひそめた。
玄関の戸を開け閉めする音、台所に上がり込む気配。家は狭いから、誰が来たのか耳を澄まさずとも分かる。
祖母とおばちゃんのやりとりが聞こえた。
「今日はまだ帰ってきていないよ」
「……そうかねえ」
沈黙が流れた後、台所の戸が閉まる音がした。
その後しばらくして、再び同じ声。
「洋介君はまだ帰ってきとらんかねえ。三浜屋にもおらんようやが」
三浜屋とは、俺がよく通っていた駄菓子屋だ。
祖母は平然とした調子で「今日は友達のところへ遊びに行ったよ。遅くなるやろう」と答えていた。
その瞬間、子供心にも自分が匿われていることを悟った。炬燵の中で体を丸め、息を止める。何か大きなものが家の外にうろついているような恐怖が背筋を撫でた。
やがて日が落ち、家の中が闇に包まれた。八時近くになって両親が帰ってきた。
その頃にはおばちゃんは姿を見せなくなっていた。
祖母がゆっくり二階へ上がってきて、「もう降りていいよ」と言った。
俺は解放された気持ちで階段を降り、いつもよりずっと遅い夕食を食べた。
その晩、近所の竹やぶで佐々間のおばちゃんが首を吊っているのが見つかった。
父と母が小声で話しているのを、襖の隙間から聞いてしまった。遺書があったという。
『希望がないのでもう死にます。一人で死ぬのは寂しい』
そんな文が残されていたらしい。
あのとき俺を探していたのは、どういう意味だったのか。
一緒に死のうと思っていたのか。
それとも、最後に一目会いたかったのか。
今となっては確かめようもない。
けれど、あの夜、祖母が俺を二階に押し込めて「誰が来ても降りてくるな」と言った理由だけは、はっきりしている。
あの人は、俺を守ろうとしたのだ。
ただ、守られた先に残されたのは、ぽっかり空いた穴のような喪失感だけだった。
大人になった今でも、夜道で不意にあの声を思い出すことがある。
「洋介君はまだ帰ってきておらんかねえ」
その声が、優しさの響きだったのか、孤独の呻きだったのか、もう判別できない。
ただ一つだけ確かなのは、俺の中で佐々間のおばちゃんは、死んでもなお探し続けている存在だということだ。
どこかで、誰かを。いや、もしかすると、いまだに俺を。