子供の頃の記憶というのは、妙に鮮明な断片と、すっぽり抜け落ちた闇とでできている。
どうしても忘れられない一日がある。
家の湿った匂いと、障子越しに差し込む夕暮れの赤だけは、今もはっきり思い出せる。
両親は共働きで、朝から夜まで家にいなかった。
俺の面倒を見ていたのは、近所の《佐々間のおばちゃん》だった。頭が少し弱く、文字もろくに読めなかったらしい。だが、俺にとっては学校から帰ると必ず迎えてくれる人だった。畑の野菜を抱えて来て、台所で包丁を振るい、煮崩れた味噌汁を出す。雑だが、安心する味だった。
おばちゃんは家事と、寝たきりの祖母の世話もしていた。
祖母は慢性の病で、いつも布団に沈んでいた。
その日、学校から帰ると、おばちゃんはいなかった。
代わりに、普段は起き上がれない祖母が居間に座って湯呑を持っていた。
「今日はまだ来ていないよ」
祖母はそう言い、俺の腕を強く掴んだ。
そのまま二階に押し上げる。
「今日は誰が来ても降りてきちゃいけないよ」
菓子とポンジュースを握らされる。
口元に人差し指を当て、「シー」と笑った。その笑いは、咳をこらえる時の顔に似ていた。
「誰が来ても?」
そう聞くと、祖母は少し考えてから、言い直した。
「……誰が来てもだよ」
襖が閉まり、足音が遠ざかった。
二階のこたつに潜り込む。
テレビをつけても音が頭に入らない。
曇天で部屋は薄暗く、時間の感覚だけが伸びていく。
やがて階下から声がした。
「洋介君はまだ帰ってきておらんかねえ」
聞き間違えるはずがない。
佐々間のおばちゃんの声だった。
息が止まる。
玄関の戸が開き、閉まる。台所の床板が鳴る。
祖母の声がする。
「今日はまだ帰ってきていないよ」
間があった。
「……そうかねえ」
しばらくして、また同じ声が響く。
「洋介君はまだ帰ってきとらんかねえ。三浜屋にもおらんようやが」
祖母は平然と答える。
「今日は友達のところへ行ったよ。遅くなるやろう」
俺はこたつの中で体を丸めた。
布団の内側で、自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえる。
そのとき、妙なことに気づいた。
声ははっきりしているのに、足音がしない。
台所の戸が閉まる音はするのに、出ていく気配がない。
階段を上がる音もなかった。
どれくらい経ったのか分からない。
外が暗くなり、両親が帰ってきた。
その頃には、家は静まり返っていた。
祖母が二階に上がってきて言った。
「もう降りていいよ」
そのときの祖母の手は、異様に冷たかった。
夜になって、近所の竹やぶで佐々間のおばちゃんが首を吊っているのが見つかった。
両親が小声で話しているのを聞いた。
亡くなっていたのは、夕方より前だったらしい。
俺が学校から帰るより、ずっと前に。
翌日、家の中を警察が調べに来た。
祖母は「何も知らない」と繰り返した。
ただ一度だけ、誰もいない居間に向かって言った。
「今日はもう、帰らせたからね」
あれが誰に向けた言葉だったのか、今も分からない。
大人になった今でも、夕暮れ時になると玄関の戸が軋む音を思い出す。
ときどき、はっきり聞こえる。
「洋介君はまだ帰ってきておらんかねえ」
俺には子供がいる。
まだ幼い。
先日、息子が二階から降りてこなくなった日があった。
理由を聞くと、こう言った。
「だって、下に知らないおばちゃんがいるんだもん。ぼくの名前、知ってた」
その声は、優しかったらしい。
(了)