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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

旧姓で呼ぶ声 nw+393

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中学の同級生のことを、私は一度も思い出したことがなかった。

名前も、顔も、声も、何一つ残っていない。卒業してから十三年経っていたし、そんなものだと思っていた。

梅田の地下街で声をかけられるまでは。

「おーい、〇〇さん!」

旧姓で呼ばれた。

足が止まった。仕事関係の人間かもしれないと思い、反射的に笑顔を作って振り返った。人の流れの向こうに、三十歳前後の男が立っていた。こちらに向かって大きく手を振っている。

「久しぶりやなあ」

男は当然のように近づいてきた。

私は笑顔を保ったまま、頭の中だけが真っ白になっていた。見覚えがない。仕事先の人間ではない。親戚でもない。けれど向こうは、私のことをよく知っている顔をしていた。

「絶対わかってへんやろ。俺や、Aやで」

A。

その音を聞いても、何も動かなかった。記憶のどこにも引っかからない。

「元気そうやん。変わってへんなあ」

そう言われても、返せる言葉がなかった。私は「ほんま久しぶり」とだけ言って、その場をやり過ごした。男はずっと笑っていた。懐かしむような、確認するような笑い方だった。

別れてから、すぐ実家に電話した。

母に中学の卒業アルバムが残っているか聞くと、押し入れにあると言われた。週末に実家へ戻り、埃っぽい箱からアルバムを出した。

Aという名前は、確かにあった。

ただし、同じクラスではなかった。隣のクラスのページに、彼の顔写真が並んでいた。

見ても何も思い出せなかった。

輪郭も、目つきも、髪型も、梅田で会った男とつながらない。十三年経てば顔は変わる。そう思おうとしたが、そもそも私は中学時代のAという生徒を一度も見た記憶がなかった。

集合写真のページも開いた。

Aは端のほうに写っていた。体を少し斜めにして、他の生徒たちとは違う方向を見ている。

私のほうだった。

正確には、私の顔ではない。私が写っている列の、少し上。まるで写真を撮っている人ではなく、出来上がった写真のこちら側を見ているようだった。

気味が悪くなり、当時の友人に連絡した。

友人はAのことを覚えていた。

「Aくん? ほとんど学校来てへんかった子やろ」

一年の前半だけ通い、その後はずっと不登校だったという。私と同じクラスになったことはない。話したこともないはずだと言われた。

「顔見てわかるわけないと思うで。あんた、地味やったし」

友人は笑っていた。

その言い方に少し腹が立ったが、笑い返せなかった。

それから一ヶ月ほど経った。

出張で東京に行った。三日目の夜、打ち合わせを終えてホテルへ戻る途中だった。駅前の信号で、人混みが少し詰まった。

背後から、あの声がした。

「おーい、〇〇さん!」

体が固まった。

振り返る前に、誰かが私の横をすり抜けた。梅田で会った男だった。Aはコートのポケットに手を入れ、こちらへまっすぐ歩いてきた。

「また会ったね」

その言い方が嫌だった。

偶然を喜んでいる声ではなかった。前からそうなると知っていたような声だった。

私は「ごめん、急いでるから」と言って、そのまま信号を渡った。赤に変わりかけていたが、止まれなかった。ホテルの部屋に入って鍵をかけ、チェーンをかけ、しばらく玄関に背中をつけて座り込んだ。

その夜、眠れなかった。

廊下で人の足音がするたび、体が縮んだ。隣室のドアが閉まる音にも息が止まった。

何度もスマホでAの名前を検索した。何も出てこなかった。中学の校名と一緒に入れても、住所地を入れても、古い同級生の名前を足しても、何も出ない。

翌朝、友人に電話した。

「Aくんの家って、どこやったっけ」

友人は少し黙ったあと、「なんでそこまで気にするん」と言った。

私にもわからなかった。

でも調べずにはいられなかった。

大阪へ戻ってから、昔の同級生を何人か辿った。Aの家があった場所も聞いた。そこへ行ってみると、家はもうなかった。小さな月極駐車場になっていて、入口の看板だけが新しかった。

隣の家の年配の女性が、Aの名前を覚えていた。

「亡くなったんちゃうかな。だいぶ前に」

それは世間話の調子だった。

私は聞き返した。

女性は、家族が引っ越したあとに噂だけ入ってきたのだと言った。詳しくは知らない。ただ、自分で命を絶ったらしい。何度かそういうことがあった子だった、と。

「七年くらい前やったと思うわ」

七年前。

梅田で会った男は、生きている人間にしか見えなかった。

服も、靴も、肌の色も、声も。何より、人混みの中で誰にも避けられていなかった。東京でもそうだった。Aは普通に横断歩道を渡り、普通に私のそばまで来た。

それでも私は、それ以上調べられなかった。

ところが、三ヶ月後にまた会った。

友人と和歌山へ旅行に行ったときだった。貴志駅で改札を出ると、観光客が写真を撮っていた。猫の形をした駅舎を見上げて、友人が笑いながらスマホを構えた。

その奥に、Aがいた。

人の列の向こうで、こちらに手を振っていた。

「こんなところで会うなんて!」

声は明るかった。けれど、その場にいた誰もAのほうを見なかった。Aが大声を出したのに、誰一人振り向かなかった。

私は友人の腕をつかみ、そのまま駅前のタクシーに乗った。

車が走り出してから、友人が「何、どうしたん」と聞いた。私は全部話した。梅田で会ったこと。東京で会ったこと。卒業アルバムのこと。Aが死んでいるらしいこと。

友人は半信半疑だったが、「ほんまに死んでるか確認しようや」と言った。

その一言で、もう一度調べることになった。

古い同級生からさらに伝手を辿った。誰かがAの親戚とつながっていないか探した。正確な死亡届を見たわけではない。ただ、複数の人間が同じことを言った。

Aは七年前に死んでいる。

それ以上の話になると、みな口が重くなった。

「ちょっと変わった子やった」
「人の名前をよう覚えてた」
「知らん人にも、昔から知ってるみたいに話しかける子やった」

最後の言葉だけが、妙に残った。

四月に台湾へ行った。

旅行そのものは楽しかった。帰りの飛行機に乗り、通路を歩いているときだった。

前方の席から、声がした。

「おーい、〇〇さん!」

足が止まった。

Aが座っていた。

窓側の席だった。隣には中年の男性が眠っていて、通路側には若い女性が雑誌を読んでいた。Aはその二人のあいだから、体を少し前に出して手を振っていた。

「また会ったね」

私は返事をしなかった。

友人が「知り合い?」と小声で聞いた。私は首を振った。震えていたのが自分でもわかった。

席に戻ってから、友人に「今の人、見えた?」と聞いた。

友人は少し考えて、「声は聞こえた」と言った。

「顔は?」

「見てない。あんたが急に止まったから」

飛行機が離陸してからも、私は前方の席を見られなかった。

到着後、荷物を待つ場所でAを探した。いなかった。出口にも、トイレの前にも、両替所の前にもいなかった。

そのかわり、帰宅してから妙なことに気づいた。

私は彼に、今の姓を一度も教えていない。

梅田でも、東京でも、和歌山でも、飛行機でも、Aはずっと旧姓で呼んでいた。中学時代の名前だ。だからまだ、自分に関係のあるものだと思えていた。

けれど先週、郵便受けに一枚のはがきが入っていた。

差出人の名前はなかった。消印も薄く、どこの局か読めなかった。

表には、今の姓で私の名前が書かれていた。

裏には一行だけ。

「おーい、〇〇さん」

〇〇の部分だけ、中学時代の旧姓だった。

そのはがきをどうしたか、はっきり覚えていない。捨てたつもりでいる。けれど台所の引き出しを開けるたび、そこにまだ入っている気がする。

最近、アルバムをもう一度見た。

Aの集合写真は、前と少し違っていた。

端に写っていたはずのAが、少しだけ列の内側に寄っていた。私の斜め後ろに立っていた。

私はその写真を閉じた。

それから、誰にもこの話をしていなかった。

書けば終わると思った。文字にすれば、自分の中から少し離れると思った。

でも、今これを書いているあいだも、廊下で足音が止まっている。

インターホンは鳴っていない。

誰もノックしていない。

ただ、ドアの向こうで誰かが、こちらの名前を思い出そうとしている。

[出典:521 :本当にあった怖い名無し:2009/04/02(木) 12:27:51 ID:t9m6v3r+O]

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