山に入ったのは、命日が近かったからだ。
理由を聞かれればそう答えるしかないが、実際には自分でもよくわかっていなかった。家にいれば、遺影と線香と、触れることのできない過去だけが静かに増えていく。外に出れば、それらから一時的に距離を取れる気がした。ただそれだけだった。
妻が死んでから三年が経っていた。事故だった。詳細を語る気はない。語るたびに、事実が削れていく感覚があるからだ。思い出だけが妙に鮮明で、現実の輪郭が曖昧になる。医者の言葉も、警察の説明も、今ではどこか遠い。
山道はよく整備されていた。登山客もちらほらと見かけたが、深く入るにつれて人の気配は減っていった。木々の間を抜ける風の音と、自分の足音だけが、一定のリズムで続いている。
不思議なことに、その日はやけに身体が軽かった。息も上がらず、足取りも自然だった。久しぶりに「歩いている」という感覚を思い出していた。
分岐を一つ過ぎたあたりで、視界の端に人影が立った。
道を外れた斜面の少し奥、木立の陰に、若い女が立っていた。こちらに背を向けている。登山客にしては服装が妙に街着じみていて、色もくすんで見えた。
声をかけようとして、言葉が喉で止まった。
妻だった。
年齢も、髪の長さも、肩の線も、記憶の中にある姿と寸分違わない。死んだときよりも、むしろ元気だった頃に近い。振り返りもしないその背中を見ているだけで、胸の奥がざわついた。
名前を呼ぼうとしたが、声にならなかった。
女はゆっくりと歩き出した。山道ではなく、明らかに踏み跡の薄い森の奥へ向かっている。枝を避ける仕草も、歩幅も、見慣れたものだった。
考える前に、足が動いていた。
藪を掻き分けながら追いかける。木の根に足を取られ、何度かよろめいたが、不思議と転ぶことはなかった。距離は縮まらない。早足でも、走っても、一定の間隔を保ったまま、妻は先を行く。
呼吸が荒くなり、胸が痛み始めた頃、女が立ち止まった。
背中越しに見える肩の線に、懐かしさが込み上げる。もう少しで触れられる。そう思った瞬間、視界の端で地面が不自然に途切れていることに気付いた。
足元は、急に軽くなっていた。
同時に、耳元で声がした。
わたしじゃない。
低く、焦ったような、確かに聞き覚えのある声だった。振り返らずともわかる。妻の声だ。日常の中で、文句を言うときの、あの少し呆れた調子。
反射的に、手を引っ込めた。
次の瞬間、自分が崖の縁に立っていることを理解した。足先のすぐ下は、闇だった。数歩前に出ていれば、確実に落ちていた。
女が、ゆっくりと振り返った。
そこに顔はなかった。目も口も鼻もなく、ただ黒く塗り潰されたような面があるだけだった。布のようにも、影のようにも見え、輪郭が定まらない。こちらを見ているはずなのに、視線というものが存在しなかった。
その姿は、にじむように揺れ、次の瞬間には森の闇に溶け込むように消えた。
膝が震え、座り込んだ。息が整うまで、どれくらいの時間が経ったのかはわからない。風の音が戻ってきたとき、ようやく立ち上がることができた。
山道へ戻る途中、何度も後ろを振り返ったが、もう誰の姿もなかった。
下山を始めると、不思議なことが起きた。
耳元で、声が聞こえる。
まったく、あなたったら。
前もそうだったでしょ。ちゃんと足元見なさいって言ったのに。
それは責めるでもなく、慰めるでもない、いつもの調子だった。生きていた頃、何気ない日常で何度も聞いた声。
幻聴だと思おうとした。疲労と緊張のせいだと。だが、声は途切れなかった。足を止めると、止まり。歩き出すと、少し遅れてついてくる。
崖から離れた道では、何も言わない。足場が悪くなると、小さく舌打ちする。木の根を跨ぐときには、気をつけて、と囁く。
振り返っても、姿はない。
下山口が見えた頃、ふと疑問が浮かんだ。
さっきの声は、誰が止めたのだろう。
崖の縁で聞いた「わたしじゃない」という叫び。今、耳元で続いているぼやき。どちらが本物で、どちらが偽物なのか。
考えようとした途端、声がぴたりと止まった。
代わりに、背後で小さな足音がした気がした。振り返る勇気はなかった。山を出るまで、ただ前だけを見て歩いた。
それ以来、命日が近づくと、無性に山へ行きたくなる。
行けば、また会える気がする。
止めてくれる気もする。
それとも、今度こそ――。
考えないようにしている。
関わってしまうこと自体が、もう、取り返しのつかない選択だと知っているからだ。
[出典:824 :オマージュ ◆DCEejEYaj2 :2007/08/18(土) 00:40:42 ID:j+Pb93iO0]