仕事を辞めてしばらく経った頃だった。
旧い会社の元請け先から、慰労を兼ねた温泉旅行に誘われた。正直、気乗りはしなかった。あの人間関係と、再び顔を合わせるのは気詰まりだったからだ。だが断る理由も見当たらず、半ば惰性のような気持ちで、集合場所に向かった。
行き先は、山の奥にある古びた湯治宿だった。飾り気のない佇まいだが、玄関を入った瞬間に、薬草と湯の香りが鼻をくすぐり、旅情めいたものを感じたのを覚えている。
夕食は会席料理で、思いのほか豪勢だった。囲炉裏の炭火で焼いた川魚、山菜の天ぷら、小鍋仕立ての猪肉。グラスを重ねるごとに皆の口も軽くなり、くだらない昔話が笑い声と一緒に湯気に溶けていった。
酔いが回り、布団に倒れ込もうかという頃だった。部屋の襖がすっと開いて、年配の仲居が顔を覗かせた。
「お休みになる前に、マッサージなどいかがですか? こちらにはとびきり腕の良い按摩士がいましてね」
その一言に、なぜか妙に心が動いた。
慢性的な肩こりがあり、それに伴う偏頭痛には長年悩まされていた。何度かぼやいた覚えはあるが、まさか聞き耳を立てられていたとは思わなかった。
「そんなに良いなら……お願いしようかな」
ほどなくして、部屋に按摩士が現れた。年の頃は五十を超えているか、精悍な顔つきに禿げ上がった頭が印象的だった。無口で、所作が異様に静かだ。だが、身体から発される気配のようなものに圧倒され、思わず背筋が伸びた。
彼は施術を始める前に、仕事のこと、生活リズム、食生活、果ては過去の病歴まで、こちらの身の上を矢継ぎ早に問いかけてきた。不思議と嫌な気はせず、次第に身体の強ばりが溶けていくのがわかった。
「肉をリラックスさせるには、まず言葉で心をほぐすのが一番ですから」
穏やかにそう言いながら、分厚い手のひらを肩に当てた。
「……うん、これはちょっと手ごわいですね。一度じゃ無理かもしれないな」
そう呟くと、彼の手は的確な圧を加えながら、次々にツボを刺激していった。肩、背中、腰、脚……揉まれる度に、骨の奥にこびりついていた冷たい何かが剥がれていくような感覚があった。
だが、しばらくして、奇妙な違和感が襲ってきた。
最初は指圧の変化かと思った。だが、それは揉むでも押すでもない。まるで、指を肉の中に深く差し込み、何かを“つまんで”引っ張り出すような動きだった。
うつ伏せの体勢だったから、彼の手元は見えなかった。だが、その動作は何度も繰り返された。明らかに“何か”を摘出しているようだった。
体位が変わり、仰向けになったとき、やっとその“何か”の正体を目にした。
按摩士の手には、黒く濁った小さなものが掴まれていた。よく見れば、まるで虫のように手足をばたつかせ、呻くような音さえ感じられた。だが目を凝らしても、輪郭は曖昧で焦点が合わない。
彼はそれを、さも当然のように手元の袋にしまい、何事もなかったかのようにマッサージを続けた。
しばらくは声も出なかったが、ついに耐えきれず口を開いた。
「あの……今の、それ……生き物、じゃないんですか?」
按摩士はふっと笑った。
「見えましたか。あれは疲労と悪念とが凝り固まったものです。勤め人の“業”とでも言えばいいでしょうか。心がほどけてくると、ああやって動いて見えるんです。幻覚のようなものですよ」
乾いた笑い声だけが響いた。
だが、納得はできなかった。例えるなら、墓場の土の中から這い出てくる虫のような……何か忌まわしいものを、彼は確かに摘み取っていた。
「じゃあ、その……業ってやつ、どうするんですか?」
その問いに、按摩士はぽつりと呟いた。
「食べますよ。人間の業は、滋味深くて、最高のご馳走ですからね」
笑っているようで、目は笑っていなかった。
「……冗談ですよ、もちろん。田舎按摩士の与太話。気にしないでください」
その後は、何事もなかったように施術が終わった。
体は羽のように軽くなり、長年の痛みも消えていた。あまりに気持ちが良くて、そのまま深い眠りに落ちた。
翌朝、起きてからふと、按摩士の名前を尋ねようと仲居に聞いたが、「そんな人はこの宿にはいない」と首を傾げられた。昨夜のマッサージの記録も残っていないと言う。
証明するものは何もなかった。ただ、自分の肩こりだけが、まるで最初から存在しなかったかのように綺麗に消えていた。
それ以来、あの黒いものの感触が、時折、夢の中で背中を這い回る。
またどこかで、誰かが“業”を食われているのかもしれない。
[出典:http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/occult/1408787772/]